2020年1月14日 (火)

「親子はねやすめ 活動報告」

11月7日卓話要旨
宮地 浩太会員(NPO法人親子はねやすめ代表理事)

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日頃よりお世話になっております。卓話のお時間を頂戴いたしました。親子はねやすめ一同、改めて御礼申し上げる次第です。卓話の時間では、映像が主となりましたが、その中で東北の活動について、そして10月開催社会奉仕委員長金井会員も参加くださいました昭和記念公園での家族揃ってのバーベキュー大会、今一度この週報にてご報告申し上げます。
先ずは、東北の活動について。2017年、FMラジオ局J-WAVEより親子はねやすめの活動についてインタビューの申し入れがあり、有難くお受けいたしました。その放送を聞いて下さいました市民社会創造ファンドより武田製薬のプログラムにエントリーすることを奨められ活動の資金を2年間にわたり得ることができました。東北での活動を願っていた私たちにとってたいへん幸運な機会に恵まれました。しかし、活動のきっかけをどう付けたら良いのか模索しながらスタート。ファンドの紹介で尋ねたNPO団体からは、「東京の法人が何を言っているのか、何が解るのか、東北の人間はそんな活動に耳を傾け協力する人間などいない。」と強くお説教を受けながらも口説くこと90分。残念ながら結局何も得られぬままに仙台から引き揚げたのが活動の始まりでした。帰り道の新幹線で飲んだビールが苦いこと、苦いこと。その中で、いつも神田RCのみなさまをはじめ多くのみなさまにご支援頂いたお陰で生み出された家族の笑顔と神田RCで得た東北支援活動の経験がなによりも私の支えであることは言うまでもありません。新幹線の中で絶対に活動を根付かせる、東北の家族の笑顔がたくさん生まれるまで活動を続けると心に決めたのが昨日のように今も思えています。
この約2年間の東北の活動で、学生を含む様々なボランティアさんが募ってくれるようになりました。先月11月には河北新報社のインタビュー記事も掲載いただきました。仙台WEB情報「machico」にも東北へ向けての活動に対するアンケート(多くの声援を頂きました)や活動取材掲載も頂きました。まだまだ活動と出会ったご家族は少ないのですが、東北のご家族の笑顔も生み出すことができ、イベント開催にはいつも参加頂ける家族も出てきました。まさにこれから、そんなムードが団体に湧き上がってきています。これも普段応援頂いている神田RCのみなさまのお陰です。
ありがとうございます。引続きご声援お願いをいたします。
続いて昭和記念公園で実施いたしましたデイトリップ、家族そろってお出かけ企画のバーベキュー大会。お招きしましたのは、杉並区在住の障がいのあるお子さんのいるご家族13組。ご家族は、親御さんがとても若いのが特徴でした。子育てに悩みのない親御さんはそう多くはないと思いますが、社会からの理解が感じられない、逆に社会の理解不足の中での生活は、顔にその不安を感じずにはいられません。若い世代の家族が、躍動感をもって希望と勇気が生み出せる社会であることを願いながら実施いたしました。
現在、都内の一部でようやく医療的ケアのあるお子さんが親御さんの同伴無しで小学校へ通えるようトライが始まりました。それが当たり前の社会になってくれることを祈っています。一方で、やはりここ10年で2倍に増えている医療的ケアの必要なお子さんたち、特に0~6才のお子さんのいるご家族には、お子さんとその家族に対する社会の理解、そして実際に相対する一般の方々と共に過ごす時間と会話は不可欠だと考えています。家族を孤立・疲弊させてはいけない。世の中で一番小さな社会を構成する家族が、その時代の中で力強く生き抜いていくためには、時間とともに人と人との関係性の膨らみが絶対的に必要だと、ご家族と接しながら強く感じるところです。私の神田RCで得ることのできる温かさを対象となるご家族へ向けて少しでも実践を通じて届けていきます。
最後にバーベキューに参加頂きました金井社会奉仕委員長に御礼申し上げます。ありがとうございました。神田RCのみなさまに日頃からの感謝を込めて

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2019年12月 3日 (火)

「お金の話アレコレ―キャッシュレス化は進むか?―」

10月24日卓話要旨
(株)東京きらぼしフィナンシャルグループ 代表取締役社長 

味岡 桂三 氏    (水藤 有仁会員紹介)
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 日本では年間どれくらいの現金が流通しているかというと、約110兆円です。わが国のGDPの約2割に相当します。世界有数の現金比率が高い国であることが日本の特徴です。なぜ現金志向が高いかというと、治安が良く、現金を持ち歩いても安全だからです。また、冠婚葬祭のときやお年玉は現金でなければならないという文化があること、日本銀行が現金のクリーン度を一定レベル維持しており、現金自体がクリーンで信頼があること、さらには全国に自動販売機やATMなど現金を使いやすいインフラが整備されていることが挙げられます。
 しかし、世界ではキャッシュレスが進んでいます。代表的なのはクレジットカードや交通系のプリペイドカードです。また、給与や取引で銀行インフラを使うこともキャッシュレスに含まれます。最近では、QRコードを使ったキャッシュレスサービスも進んでいます。日本政府は2027年までに、キャッシュレス決済比率を現在の2倍に引き上げる目標を掲げました。
 しかし、海外ではさらにキャッシュレスが進んでいます。例えば中国では、QRコードによるスマホ決済が進んでいます。特に内陸部では銀行支店がなかったり、銀行口座を持っていない人が多かったりして、銀行サービスに対する長年の不満がありました。その中でスマホが普及し、QRコードが発明され、それが結び付く形で普及したわけです。さらに、eコマースが顧客を取り込んだことで、一気に膨らんだことも影響しています。
 実は、キャッシュレス比率が世界で特に高いのは韓国です。韓国では特に、クレジットカードが普及しています。これは、韓国政府がクレジットカードを使った分、所得控除をするなどの政策を取ったためです。
 ケニアでもキャッシュレスが進んでいます。ケニアは中国以上に銀行の数が少なく、現金をトラックで運んでいました。同時に携帯電話が普及したことにより、電話番号を銀行口座のように使って送金するシステムを作りました。インフラが整っていないが故に、キャッシュレスが進むという見方もできるかもしれません。
 北欧諸国でもキャッシュレスが進んでいます。国土が広く、現金デリバリーのコストが大変だったため、キャッシュレスが進んだといわれています。スウェーデンでは、中央銀行がデジタルの紙幣を発行することも検討されているようです。実際に私が北欧に行ったときも、ノルウェーの有料公衆トイレやデンマークの券売機はキャッシュレスとなっていました。一方、現金が使えず、クレジットカードで処理するにも少し時間がかかって不便なところもあると感じました。
 実は、現金にもキャッシュレスにもそれぞれデメリットが存在します。現金は製造や物流、レジ締めや小銭の用意などでコストや事務負担が発生します。そして、強盗や窃盗などの犯罪リスクもあります。それから、現金は直前に誰が使っていたのかが分からないという匿名性を利用し、マネーロンダリングに使われる可能性も高くなります。そして、たんす預金もされがちであり、脱税につながる恐れもあります。
 一方、キャッシュレスにもデメリットがあります。例えば、クレジットカードは一定の信用度がないと発行されないため、アメリカなどでは現金を受け取らない店も出てきて、所得の少ない人が利用できなくなるなど、デジタルデバイド(格差)が問題となっています。また、窃盗などが起きない代わりに、コンピューターウイルスやアカウント乗っ取り、偽QRコードによる振り込め詐欺など、新たな犯罪も出てきています。そして、購入履歴情報などが分かってしまうというプライバシー問題もあります。災害などの停電でスマホのバッテリーが切れれば使えなくなりますし、キャッシュレスだと無駄遣いをしやすくなるのではないかという不安もあるでしょう。
 しかし今後、日本もキャッシュレスが進んでいくことは間違いありません。ただ、中国などのように一気に進むにはしばらく時間がかかるでしょう。なぜなら、既にさまざまなクレジットカードやプリペイドカードが普及し、スマホ決済のQRコードも統一されておらず、利用者がどこでも使える環境には至っていないからです。一方、現金を使いやすいインフラは整備されたままで、現金の信頼も高い状態です。ですから、これから協調と競争が行われながらキャッシュレスは進みつつ、現金もそこそこ残るでしょう。

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2019年11月12日 (火)

「児童養護施設18歳の巣立ち─すべてに意味があり、みんな大事な存在」

10月31日卓話要旨

 NPO法人プラネットカナール理事長 鈴木 邦明氏                                    
 ACHAプロジェクト         山本 昌子氏
(金井 一成会員紹介)

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私は生後4か月から2歳までを乳児院、2歳から18歳までを児童養護施設、18歳から19歳までを自立援助ホームで育ちました。育児放棄で、あと何時間か遅くなっていたら死んでいたという段階で保護されたそうです。

私の児童養護施設の生活は「幸せ」という言葉に尽きます。傍にいてくれた人達の笑顔、夜寝る前の絵本の時間、みんなで騒がしく囲む食卓。職員の方たちは、いつでも真剣に考え向き合ってくれました。血の繋がりはなくても本当の家族だと感じられました。

それが、卒園を機に一変します。保育専門学校受験をして合格したのですが、学費を出してくれるはずの父がNOと言ってきたので、合格はキャンセルして自立援助ホームに住むことになりました。朝から夜まで必死に働き続ける日々、バイトの行きと帰りは毎日泣きながら、1年間で100万円を貯めて夜間の保育専門学校に入学しました。しかし、同世代の子供達がやりたい事をしていても我慢して頑張ってきたのに、入学金を払っただけでそのお金が一瞬で消えてなくなってしまい、とてもショックでした。普通の親御さんとのような生活は私にはどんなに望んでも手に入らなかったのです。そして、押し寄せる孤独感、施設での自分が全てだったのに「自分には帰る場所がどこにもない」

自分の過去に会いに自分の子どもの頃を知っている人を訪ね、そこで、私の今までの人生には沢山の愛があったと気づき、「すべてに意味があり、

みんな大事な存在」ということに気づいたのです。

また、専門学校のあちゃさんという先輩が、後撮り撮影という形で振袖を着せてくださったことが、児童養護施設出身の子達に振袖写真撮影で「生まれてきてくれてありがとう」を伝えるACHAプロジェクトにつながりました。現在プロジェクトの活動は4年目になり、これまでに約100名の撮影を行いました。
最後になりますが、プラネットカナールの活動により
多くの児童養護施設出身者の若者たちの生活が潤い助けられています。児童養護施設出身者にとって支援があることは当たり前ではなく、奇跡のようなことです。皆さんどうか引き続き応援団でいて下さい。よろしくお願い致します。

【活動報告】
NPO法人プラネットカナール
理事長  鈴木 邦明 氏

私たちは現在16施設を支援しており、お蔭様で、今年13施設35名の卒園生の希望者全員に主要な家電を贈ることができ、それ以外にも274アイテムを贈呈しました。贈呈式は、不安な中、嬉しそうな卒園生たちの微笑みで溢れていました。応援している人たちが沢山いるということが力になっていると確信しています。引き続きご支援、宜しくお願いいたします。

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「米山月間に因んで」

10月3日卓話要旨
「米山月間に因んで」
米山奨学生 田 勝圭さん
(髙柳 憲嗣会員紹介)
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 卓話の前に、簡単な自己紹介をさせて頂きます。私は今年27歳で、出身はソウル生まれ、ソウル育ちのジョン・スンギュといいます。2012年から2014年まで兵役に就いた後、2017年4月に明治大学に入学し、今年4月に米山奨学生に選ばれました。今日の卓話に関しては予め取り組んでおり、二つの理由に従ってテーマを決めました。まず、米山記念奨学会の理念に基づいているためです。そして、私自身が外国人として客観的に比較できる素材であるからです。異文化理解について語る前に、歴史の事例を鑑みていきましょう。結論から言うと、異文化理解の誤りは、大きな結果をもたらします。例えば、豊臣秀吉による朝鮮出兵では、小西行長ら率いる日本軍は朝鮮半島に上陸してわずか1週間で朝鮮中央部の漢陽(ハンヤン、現在のソウル)を占領しました。日本軍の快進撃を前に朝鮮政府は、「小西軍の食糧は1カ月分しかないから、1カ月間取り囲めば勝てる」と判断していたのです。しかし1カ月後、朝鮮軍は敗北しました。これは日本軍の食糧の量を読み間違えたからではありません。敗因は、当時の韓国人の食事量が、現代の韓国人の2倍、当時の日本人の3倍にも上ったからです。つまり、朝鮮政府が1カ月分しかないと判断していた食糧は、実際は日本軍にとって3カ月分もあったのです。もしも当時の朝鮮軍が日本文化をきちんと理解していれば、結果は変わっていたでしょう。
さて本題ではありますが、真の異文化理解とは何でしょう。まず、異文化理解とは、複数の文化があるということを前提に、自分の文化とは異なる文化を理解して解釈しようと努力することをいいます。それゆえに、文化相対主義の観点、言い換えれば、他者への理解と容認する態度が必要になります。ただ、注意しておきたいのは、全てを認めてしまうと倫理的な問題が発生してしまうことです。アフリカでは死体を食べると死者の魂が自分の体に宿ると信じられています。或いは、女性や児童への虐待、身体棄損などの風習や文化を持つ地域もあります。そのため、全てを容認するのではなく、部分的な相対主義観点が求められます。
 最後に、異文化理解に関する私の経験を取り上げさせて頂きます。元々私は、日本と韓国をつなぐ懸け橋になりたいという目標を設定し、留学を決めました。とはいえ、私は日本に来て多くの試行錯誤を経験してきました。日本に来た当初、私自身は馴染めない外国人、頑固な韓国人という色眼鏡で見られていると感じていました。一方、外国人だから差別されていたのではなく、私自身の勘違いのせいだったと言わざるを得ません。そのような経験を含め、幾つか指摘されたことがありました。最初は早口に注意することでした。自分ではそのつもりはありませんでしたが、早口だという指摘をよく受け、指摘は話し方だけでなく、話法にもポイントがありました。例えば喫茶店での支払いで、以前おごってもらったから今度は自分が払おうと思って「俺が出すからいいよ」と言った時、後日友人から「なぜ怒っているのだろうと思った。」という素直なフィードバックも頂きました。加えて日本社会での相手の話を聞いて察する文化が韓国と真逆だと感じました。まずは相手の話を聞いて、反論する前にもう一度相手の立場で考えるのです。韓国でも相手の言い分を察しないわけではありませんが、納得できないところがあれば、直接相手に言います。アルバイト先の先輩に「こっちの方が効率的ではないですか」と話すと、「日本人はまず相手の話を聞き、それを聞いた上で相手の立場で考える。それが日本社会だ。」と言われました。それから、語彙と表現の使い方とニュアンス的理解を深めることも大事だと考えざるを得ませんでした。例として、私は韓国が早急に経済発展してきたことを「まぶしい経済成長」という言い方をしましたが、日本では「輝かしい経済成長」という表現が正しいのです。このニュアンスの違いが、私には非常に難しいのです。対策として新聞を読んだり友人に聞いたりして、語彙力を磨いています。
 以上のように、話し方や話法、察する能力、語彙やニュアンスへの理解を身に付ける努力を積み重ねても、日本人と触れ合う経験がなければ意味がありません。私の留学はまだ2年に過ぎませんが、実際に異文化理解を実践していけば、日本と韓国だけでなく、世界各国どこでも理解し合うことができると確信しました。したがって、これからも異文化理解をより深め、切磋琢磨していきたいと思っています。

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「明治東京の西郷隆盛~その実像と生活」

9月26日卓話要旨
歴史研究家 伊東 成郎 氏
(角田 実会員紹介)
西郷隆盛は明治4年(1871年)の夏ごろから、日本橋の小網町と蛎殻町をまたぐ広い敷地に住み、「小網町の西郷さん」と呼ばれていました。西郷は4月に鹿児島から上京し、新政府の重鎮になりましたが、2年後の明治6年10月、征韓論を巡る対立で辞職し、鹿児島へ帰ります。それまでの間、人形町の水天宮近くで暮らしていたのです。
 下男の永田熊吉の証言によると、西郷の屋敷は米穀取引所から第五国立銀行の一帯で2633坪ありました。そのすぐそばで谷崎潤一郎が明治19年に生まれています。西郷家では、厄介な洗濯物は老舗の白木屋(1662年創業の呉服店)にお願いしました。また、当時は新橋演舞場辺りにあった精養軒の洋食が好きで、取り寄せていました。精養軒は上野に移転しましたが、ここで西郷の銅像と一緒になったのは全くの偶然です。西郷像は高村光雲の作で、当人の決断によって戦禍を免れた東京を高台から見渡せるよう、彰義隊との上野戦争にちなんだ上野の山に明治31年建てられました。大好きなお店の近くに本人の銅像が永久に建っているわけです。大隈重信の家に仕えた使用人の回想によると、西郷は人形町から現在の皇居まで毎日歩いて通っていました。くつわの紋(薩摩の紋)が付いた薄色の着物を着て、小倉(厚めの木綿)の袴をはき、大小を差して、草履を履いていました。熊吉がいつも白木の弁当箱を持ってお供をしていたそうです。
 西郷には多くのエピソードがあります。妻の糸の証言によると、西郷は塩辛いものが好きでした。肥満体にとっては大敵です。糸はハラハラしながら西郷の食生活を見ていたかもしれません。ウナギも大好きでした。西郷の孫で法務大臣まで務めた吉之助によると、蒲焼き屋でウナギを注文すると、口に合わなかったらしく、犬に食べさせ、代金を煙草盆の下に入れて帰っていったそうです。今の感覚ではもったいない話ですが、それも西郷の愛情表現だったのかもしれません。素直にお金を払えばいいのにそうしないところも西郷の美徳だったのでしょう。
 西郷はとても立派な体格でした。吉之助の回想によると、身長は5尺9寸(177cm)、体重は29貫(116kg)でした。明治4年に西郷を自宅に招いた土佐の砂糖問屋店主の記録によれば、長袖のシャツを着ると袖の根元が腕の途中でつっかえてしまったそうです。
 東京で暮らしていた頃、西郷はよく狩猟に出掛けました。というのも、肥満で塩分も取り過ぎの西郷は、脳卒中の危険を自覚していました。それを案じた明治天皇はドイツ人医師を使わします。西郷は健康指導を受けて、渋谷にあった弟・従道の別宅に一時移り、野外運動として大好きなウサギ狩りをしていたのです。弟の屋敷は現在の渋谷駅前の金王八幡宮辺りにあり、西郷は数カ月、渋谷や青山で連日のように狩りをしていました。明治32年に渋谷で生まれた私の祖母が「道玄坂でキツネの親子を見た」と言っていたことが思い出されます。西郷は翌年、鹿児島に帰り、ウサギ狩りの趣味は一層深くなりました。
 また、西郷が犬好きだったことは有名です。吉之助の話では、西郷は何の欲もない人でしたが、犬に対する欲だけはすこぶる強かったそうです。祇園の芸妓の話では、西郷は新撰組などを警戒する幕末の京都の宴会にも犬を連れてきたそうです。そして、小網町の屋敷にも犬を5~6匹飼い、あだ名も付けてかわいがっていたようです。
 熊吉は、隆盛の死から25年後の明治35年に亡くなりました。従道は現在の代官山に屋敷を構え、ここに晩年の熊吉を家族ともども住まわせ、最期をみとりました。亡くなると盛大な葬儀を挙行し、参列者に向かって「私のもう一人の兄が亡くなりました」と涙を流してあいさつしたそうです。
 西郷から1年にわたって生活の援助を受けていたのが、坂本龍馬の未亡人、お龍でした。お龍は美人でしたが、とっつきが悪く、龍馬の死後、仲間から遠ざけられて辛酸をなめました。幕末にお龍と龍馬は西郷に大変世話になり、鹿児島の温泉に新婚旅行に行ったときは西郷が全般をサポートしました。そのような大恩人を今度は東京で頼ったのです。しかし、1年余りで西郷との別れが訪れます。明治32年の報知新聞によると、2人が決別したのは鎧橋上だったそうです。西郷は写真嫌いだったので写真は残っていませんが、お龍もそんな西郷に誓って、自分も生涯、写真は撮るまいと決めたそうです。本や雑誌などで、若いときのお龍とされる写真は別人と見ていいでしょう。

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2019年10月 9日 (水)

「バギオ訪問への誘い」

9月12日卓話要旨

鈴木 一行会員
(一財)比国育英会バギオ基金 理事)
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本日は、来年3月に皆さんをバギオにお誘いするためにお話ししたいと思います。
 バギオのあるフィリピンには、明治時代から多くの日本人が入植し、豊かな生活を送っていました。しかし、その人たちが戦争に巻き込まれ、実際には終戦の9カ月前から、約3000人の日本人または日系の家族がマニラからバギオを目指して逃避行しました。中には、背負っているわが子がうっとうしくなり、死んでしまえばいいと思う人もいたほどで、想像を絶するような状況だったようです。一方、日本人や日系人がいわれのない罪で処刑されていました。カルロス寺岡さんもそうした経験をした一人でした。バギオで暮らしていたカルロスさんの家に、ある日、日本軍がやって来ました。父が病気で亡くなって以来、カルロスさんの家を支えていた兄のビクトルさんが、ゲリラに通じているとして憲兵隊に疑われ、殺されたのです。逆に次兄はフィリピン人から殺されてしまいます。
 戦後も日本人は現地の人たちの憎しみの的になっていました。3000人のうち、日本へ帰った人たちもいますが、フィリピン人のお母さんとその子どもということになると、残念ながら日本へ帰れません。そして、その子どもたちは日系人であると分かってしまうと、現地のフィリピン人から迫害を受けて、まともに生活できる状況ではありませんでした。そこへ救済の手を差し伸べたのが、カトリック修道院のシスター・テレジア・海野さんでした。彼女は還暦を機に、フィリピンの貧しい人々のために余生を捧げるべく、1972年バギオ市の修道院に赴任しました。迫害を恐れて日系人であることを隠し、想像を絶するほどの貧しい生活をしている人々を探し出し、その存在を明らかにして、救済、生活向上、育英に心血を注ぎました。現在、ロータリアンを中心にその活動を支えているのが、(一財)比国育英会バギオ基金です。
 さて、実際に私がバギオへ行ってきたときの様子を交えて日程を紹介します。まず、マニラからバギオへ行くとき、マニラ市内は非常に渋滞するので、警察官が先導してくれました。今までは1日目にバギオまで行っていたのですが、今回の訪問では途中のクラークで宿泊するので、かなり楽だと思います。1日目の懇親夕食会は、参加したメンバーだけで行います。厳しい体験をしたカルロスさんは、ご高齢ですが我々を迎えてくれます。ゆっくりと話され、とても穏やかな方です。
 2日目の午後、バギオ基金の寄付金によっていろいろと設備を整えたバギオ近辺の小学校を訪問します。カルロスさんが寄付金の受け入れ口になっているので、必ず地元の学校に資金が亘ります。夜はアボン会館に奨学生が集まり、一緒に食事をします。彼らは目がとてもきれいです。
 3日目の午前中は、AとBのコースを選択することができます。Bコースは日本人墓地へ行きます。ここにはフィリピンで亡くなった日本人やシスター・テレジア・海野さんのお墓があります。日本人墓地からは1000m以上の高地にあるバギオの住宅街を展望することができます。Aコースは奨学生の家庭をジプニーという乗り物に乗って訪問します。これはとてもいい経験になると思います。バギオを昼ごろに出て、夜にはマニラへ帰ってきて夕食会をします。余興でマニラ芸術大学の学生が民族舞踊やギターの演奏をしてくれます。フィリピン人は全般的に音楽の才能があるのか、非常に質の高いものを見ることができます。
 4日目は市内視察で、飛行機の出発時間までマニラの名所を幾つか巡ります。来年3月の時には行けないと思いますが、今年の2月、私は妻と一緒にスモーキーマウンテンへ行きました。不法投棄によってメタンガスが発生し、いつも煙が出ているのでこのように呼ばれていますが、そこに住み込んで管理している人たちもいて、以前よりは犯罪が起きなくなったそうですが、衝撃的でした。
 以前より楽な日程になったのは、バスでの移動が1日目と2日目の3時間ずつになったことです。3日目は6時間弱ですが、フリーウェイが整備されているので、それほど乗り心地が悪いことはありません。フィリピンは発展途上ですので、まだまだ面白いところが沢山あります。ぜひ一度行って頂きたいと思います。

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「田辺茂一と紀伊國屋書店」

9月12日卓話要旨
(株)紀伊國屋書店 代表取締役会長兼社長 髙井 昌史 氏
(福岡 正人会員紹介)
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 紀伊國屋書店は1927(昭和2)年、新宿で創業しました。紀伊國屋は元々紀州出身で、江戸に出てきてからは薪炭問屋を営んでいましたが、創業者の田辺茂一が本屋に変えていきました。新宿3丁目で開業した当初は、売り場面積38坪、木造2階建てで、従業員は茂一の他に5名という規模でした。後にギャラリーも併設され、2階の講堂では外国語教室も開かれていました。しかし戦災に遭い、終戦直後の1945(昭和20)年にバラック建ての書店を開業しました。そして翌年には、資本金15万円の会社組織にしました。
 現在地に移ったのは1947年のことです。前川國男氏の設計で、売り場面積150坪、木造2階建てで、戦後書店建築の白眉と評されるモダンな書店でした。そして1964年、東京オリンピックの年に、前回同様、前川氏が設計した現在の紀伊國屋書店のビルが完成しました。2017(平成29)年には東京都選定歴史的建造物にも選定されています。地上9階地下2階、延べ面積3560坪のうち、売り場面積は480坪で、多くのスペースをテナントに貸しています。ビルの中には紀伊国屋ホールを造り、「紀伊國屋寄席」や演劇を公演しています。
 1966年には紀伊国屋演劇賞を創設しました。「新劇の甲子園」「演劇界の登竜門」として定評のある賞に成長し、数々の新劇人や名優がこの賞を取っており、今では最も伝統のある演劇賞になっています。50回を迎えた2015年には、記念の特別賞を制定して盛大にお祝いしました。
 フランスの哲学者ジャン・ボードリヤールが紀伊国屋を訪れたとき、「フランスには書店が出版を兼ねることはあるが、紀伊國屋のように多岐にわたって文化活動を行っている書店はない」と言って驚き、「今後の紀伊國屋書店に強い期待を持っている」と述べました。
 1966年には、哲学者ボーヴォワールの自伝翻訳を紀伊国屋の出版部が手掛けていた関係で、ボーヴォワールがサルトルと共に来社しました。このとき、ボーヴォワールの妹である画家の作品「花」が寄贈されました。茂一は民間人なので勲章などは全くもらいませんでしたが、フランスから文芸勲章騎士章を頂きました。フランス語翻訳をずっと行ってきたことで日仏の文化交流に貢献したことによる受章でした。
 1969年にはサンフランシスコに出店しました。今年7月には50周年記念のセレモニーをして多くの方からお祝いを受けましたが、当時の開店披露パーティーの際にも、日本から多くの著名作家や文人、出版社の社長、さらには銀座のクラブの方たちまで、サンフランシスコにお祝いに行ったそうです。
 茂一は戦前から数多くの雑誌を創刊しました。しかし、出しては潰れ、出しては潰れという状況で、『文芸都市』は船橋聖一、尾崎一雄、梶井基次郎、今日出海、井伏鱒二などのそうそうたる人が編纂に携わりましたが、1年で廃刊しました。その後も『アルト』『紀伊国屋月報』『レセンゾ』『あらくれ』『行動』『文学者』などを創刊し、それぞれ大作家が編纂していましたが、数年で廃刊となりました。こうした出版物は戦前、左翼思想のレッテルを張られたりして当局からにらまれていたためです。
 戦後もいろいろな雑誌を出しました。『文藝時代』『紀伊國屋月報』などはすぐに廃刊しましたが、『紀伊国屋月報』の後継として出版された『机』は1952年から1960年まで続き、その後出版された『風景』は1976年まで続きました。初代編集長は野口富士男でしたが、船橋聖一の逝去を受けて廃刊となりました。
 茂一は作家でもあり、数多くのエッセイも書きました。『六十九の非』は茂一の遺作であり、「昼間は苦虫を噛み潰したような顔をして社長業に励み、夜は銀座、六本木を徘徊する勢力旺盛な老境。69歳にして変身を遂げようとする表題作をはじめ全11篇を収録」と紹介されています。茂一は昭和の粋人であり、お昼に会社に来て昼寝をして、6時ごろに銀座に毎日行っていました。出版界は、茂一の時代が一番良かったかなという気がします。紀伊國屋には社是も社訓も社歌もありません。茂一という自由人の下で働くことができてよかったと思います。
 人生は人との出会い、本との出会いです。書店は劇場、舞台であり、書店員は出会いを演出する演出家です。観客である読者の声援があってリアル書店は生き続けます。早くからホールを備えた「文化の殿堂」をつくり、海外にも展開できたことは、創業者田辺茂一が残してくれた財産ではないかと思っています。

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「帰国報告」

9月5日卓話要旨
青少年派遣学生 川島 由楓 さん
(地区青少年委員 中島 英嗣会員紹介)


 私はフランスのアノネーという町で生活しました。熱気球で有名な町で、至る所で気球を目にしました。自然が豊かで美しく、町の人もとても親切でした。リヨンには週末、友達やホストファミリーと一緒に何度も訪れ、フランスの伝統的な家庭料理を提供するお店「ブション」にも行きました。フランス人は食べることが好きで、週末は2時間ぐらいかけて昼食を取ります。夕食の前にはアペロといって、お酒やお菓子、おつまみを食べ、9時ごろから夕食となるので、食事の時間がとても長く感じました。しかし、この時間こそ家族や友人とのコミュニケーションの場であり、食がみんなをつないでいるのだと思いました。10カ月間、生活して分かったことは、フランス人はオーガニックを選ぶ人が多いということです。有機農産物や有機加工食品のことをBIOといい、スーパーにはBIOの食品が並んでいました。
 私は3軒のホストファミリーにお世話になりました。第1ホストファミリーは空港に着くと温かく迎えてくれ、私のことを本当の娘のようにかわいがってくださいました。クリスマス前にはパリに連れて行っていただき、夢のような時間を過ごしました。ホストファミリーと一緒に祝うクリスマスはとてもすてきな時間で、プレゼントも本当の家族のようにたくさん頂きました。
 第2ホストファミリーには南フランスのマルセイユやグルノーブル、サンテティエンヌへ連れて行っていただきました。すてきなコテージに親戚が集まり、6日間毎日スキーをしました。アルプス山脈でスキーをするなんて全く想像もしていませんでした。山頂からの景色は瞬きするのももったいないくらいの絶景でした。ホストマザーが風邪を引いたとき、私がミネストローネとタルティフレットを作ると、とても喜んでいました。ホストマザーとはすっかり仲良しになり、夕食後は毎日おしゃべりをし、フランス語もたくさん教えてもらいました。
 第3ホストファミリーとは、エクサンプロヴァンスやロクシタン発祥の地マノスクに行きました。一緒におすしやギョーザを作ってコミュニケーションが深まり、仲良くなれました。先祖は気球を発明した人だというホストファザーが運転する気球で、1時間ほどアノネーの町を飛行し、フランスの食文化はこの素晴らしい雄大な自然の豊かさから生み出されたのだと改めて実感しました。
 フランスの学校は休日が多い代わりに1日が長く、9時間目まであり、午後6時に終わることも多々ありました。「芸は身を助ける」といいますが、私が友達に筆で色紙に名前を書いたことがきっかけで、書道ブームが起きました。授業の合間にもクラスメートから「書いて」と頼まれ、書道をきっかけに友達の輪を広げることができました。
 私は経済系の大学を志望する人のクラスにいて、他の生徒と同様、日本でいうセンター試験のようなものを年度末に受験しました。みんなの将来が懸かっているので迷惑はかけられないと思って、私も頑張りました。私たちは3人グループで15分ほどプレゼンし、チームで一つのプロジェクトを成功させるにはどうしたらいいかを学びました。
 また、担任の先生に、日本とフランスの違いについてプレゼンをしてほしいと前日に頼まれ、それをフランス語で行うことにしたのですが、たくさんのクラスメートが真剣に寄り添ってくれました。その凝縮された時間は貴重な思い出となり、持つべきものは友だ、自分の頑張り次第で変われるということを学びました。
 4月の初め、さまざまなアーティストが集まって、町の人に作品を買ってもらい、そのお金の一部を病気の子どもに寄付するチャリティイベントがありました。私は浴衣を着て書道パフォーマンスをし、1作品15~40ユーロで15作品ほど買ってもらいました。感謝の気持ちを込めて全額寄付しましたが、このイベントは異国の地で無力感を抱いていた私に勇気とやる気を与えてくれました。
 私のホストロータリークラブには、私を含め3人の留学生がいました。地区には60人ほどのインバウンズがいました。日本人は私だけだったので最初はとても不安でしたが、下手でも伝えたいという気持ちがあれば仲良くなれることを知りました。今後はもっと多くの人とコミュニケーションを積極的にとり、自分の世界を広げていきたいと思います。今後はこの経験を生かして社会貢献を行い、恩返しをしたいと思います。

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2019年9月11日 (水)

「芸術文化振興の新たな取り組み ちよだ芸術祭」

8月29日卓話要旨
オペラ歌手・ちよだ芸術祭プロデューサー 志田 雄啓 氏
(堀田 康彦会員紹介)
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 ちよだ芸術祭は、子どもから大人までに良質な音楽を届けることを基本的な姿勢としています。公募の合唱団やワークショップなどを開催して音楽に触れる機会を提供することと、ワテラスのロビーや和泉小学校、かがやきプラザ、かんだ連雀などいろいろな所に歌手を派遣して身近に音楽を楽しんでいただくことという、二つの事業を展開しています。
 ちよだ芸術祭が他の芸術祭や演奏会と異なるのは、発起人が芸術家であるということでしょう。これは当たり前のことではなくて、大半は行政が旗を振り、高名な先生を連れてきて文化祭や演奏会を行うパターンか、民間から盛り上がって区が助成金を出すパターンです。しかし、行政主導の場合、3年間ぐらいで助成金が切れるので、その時点で立ち消えになることが多いのです。高名な先生は地元に何の思い入れもありませんし、市民も有名な先生がいなくなるならもういいかというふうに受け入れてしまいます。一方、民間の愛好家が行政に支援をもらう場合はどうかというと、企画自体は大変素晴らしいのですが、つてがないので、良質な音楽家に出会ってさらにいい芸術祭にする部分で難航します。
 そういう点でちよだ芸術祭は、私を中心とした芸術家が発起人となり、区民の皆さんに徐々に広がって、堀田様にも協力していただいて、区の支援を頂く形でだんだん盛り上がっています。地元に根差し、ボトムアップで盛り上がっていく芸術祭として、これまで見たことのない感じで行っています。
 特徴の一つは、一緒に触れ合うところです。一般からの公募で合唱団を組織していて、稽古は10回あるのですが、そこにプロの歌手2~3人が参加しており、舞台ではプロのソリストと市民が一緒に歌います。芸術において一番良いのは、上手な人の隣で歌ったり、近くで感じたりすることです。これが芸術文化の振興で一番重要なことだと思っています。例えば、とても高名な歌手の歌唱を100m離れて聴いたところで、感動はしますが、それだけです。しかし、そこまで高名ではなくとも、素晴らしい歌手が同じ歌を5cmの距離で歌っていれば、効果は全く違うと思います。そのような思いで、ちよだ芸術祭のコンサートに臨んでいます。参加される方は面白いと思ってくださっているようで、90人ぐらい集まってだいぶ盛り上がっています。
 もう一つの特徴は、触れ合いの場を提供することです。私の経験からもぜひ推進したいと思っています。私が東京藝術大学の学生だった頃、あるパーティで歌ったところ、主催者の社長の小学3年生ぐらいの子どもが楽屋に来て、「素晴らしい歌だった」と15分ほど語ってくれたのです。それを見ていた宮田学長から「いいことをやったな」と褒めていただきました。人は一定の年齢に達すると、美しい絵を見ても演奏を聴いても、良いと思えなくなるそうです。「その子は、これから良いものを見たり聞いたりしたときに感動する気持ちを与えられた」と宮田学長はおっしゃいました。ですから、小さな力ではありますが、私は地元・千代田区でそういう機会を少しずつでも子どもたちに与えられたらと思っています。また、私は病院や養老院に行って歌う機会があるのですが、歌うと皆さん大変感動されるのを何回も見てきて、社会貢献は特にしなければならないと思いました。この二つの気持ちで事業を進めています。
 芸術祭に参加してくださっている歌手や演奏家の皆さんは、音楽的にも人間的にも大変信頼する方々で、今回の趣旨を理解して積極的に関わってくださっています。小学校に行って歌うと、やはり何か衝撃があるようで、子どもたちは目を丸くします。そういう顔を見て、帰りの電車の中では「やってよかったね」という話をされています。このように直接触れて、参加して、芸術家と市民がより密接に絡み、交流することを目標にして、ちよだ芸術祭を進めています。
 将来的には、居酒屋などに入ったときにその辺に座っている人から「この前のコンサートでは声がおかしかったね」と言われるような、いろいろな場所で音楽談議ができるような環境になれば素晴らしいと思っています。音楽談議ができるということは、それだけ音楽が好きだということだからです。
 私はちよだ芸術祭を10年は絶対に続けていきたいと思っていて、これから先、神田の街がどのように変わっていくのか楽しみです。ぜひとも皆さまのご協力をお願いできれば幸いです。

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「東京オリンピック1年前」

8月8日卓話要旨
JOC名誉会員・丸天流通グループ代表 平岡 英介 氏
(井上 貴夫会員紹介)
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 オリンピックといえば総合競技大会を思い浮かべるかもしれませんが、近代オリンピックは平和や国際協調(オリンピズム)を具現化するために復活されたものです。当時のヨーロッパは戦争中だったのですが、古代オリンピックでは大会期間中、停戦していたので、クーベルタンがそれに倣って復活させたのです。そうした大きな目的のために競技大会があるので、単にメダルを取ればいいわけではありません。フェンシングや射撃、馬術など戦に関連する種目が多いのも、戦をスポーツとして昇華させるためです。このオリンピズムを普及させることがオリンピック委員会の務めです。
 しかし、近代オリンピックでは、政治的介入やボイコットなどさまざまなことがありました。モスクワ五輪では米国の意向で西側諸国がボイコットし、続くロサンゼルスではソ連をはじめとする
東側諸国がボイコットしました。モスクワではフランスやイタリア等は参加し、イギリスも政府の命令に
反して有望な種目では出場しましたが、日本はメダル候補が何人もいたにもかかわらず、アメリカからの強い圧力で、最終的に政府から「来年からスポーツに補助金を出さない」という脅しがあり、泣く泣く参加を諦めることになりました。
 また、ミュンヘンのときにはテロもありました。そのとき国際オリンピック委員会(IOC)は中止も考えたのですが、オリンピックはスポーツの力によって国際平和、国際協調、友情を育むものなので、犠牲者のためにも競技を続けることにしました。
それから、オリンピックの歴史を大きく変えた一つがドーピング問題です。男子100mのベン・ジョンソン(カナダ)は禁止薬物の検出で世界記録を抹消され、30代の若さで亡くなった女子100m世界記録保持者のフローレンス・ジョイナー(米国)にも薬物疑惑があります。従って、命を賭けて薬物を使用しても金メダルが欲しいという考え方は間違っているとして、現在はドーピング検査が厳しく行われています。
 もう一つの大きな変化は、プロに門戸を開放したことでした。オリンピズムを普及・発展させるためにも、各競技の最高の技術や力を示すべきであり、プロを締め出すのはおかしいという意見がありました。そのため、国際競技連盟ごとにプロ解禁時期は異なるものの、ある時期からプロも出場できるようになりました。現在はゴルフやテニスもプロが出場しており、今回からボクシングも出場が認められています。
つい最近では、男女差別もオリンピズムに反するとして、ほぼ全競技で男女同数になりつつあります。前回の東京五輪のとき、女子種目は本当に限られていましたが、現在は同種目同人数となるだけでなく、男女混合種目を作るなどしています。オリンピックも時代に合わせた変遷が進んでいるのです。
 日本オリンピック委員会(JOC)ができたのは1911年です。オリンピックに出場するには、その国にオリンピック委員会がなければならないので、ストックホルム大会前に発足し、柔道で有名な嘉納治五郎が初代会長となりました。
来年の東京大会は、こんなに順調な大会は初めてという評価を頂いています。施設も順調に建設されており、ハード面では全く問題がありません。ただ、ソフト面ではセキュリティの問題があります。オリンピックに限りませんが、非常にサイバーテロが多くなっています。現在では、会場に爆弾を持っていくのはほぼ無理なので、ミュンヘン五輪のようなテロは起きないでしょう。代わりに、サイバーテロで大会システムを壊したり、変電所を狙って停電させたりする方向に変わってきました。これに関しては2年ほど前から英知を集めて、何とか防ごうと対策しています。
 もう一つ問題になっているのが暑さ対策です。選手は涼しい所に一時退避できますが、観客は涼む場所もないので、熱中症になってしまう危険性があります。そうした問題も含めて検証するため、来年に向けてプレ大会が各種目で行われています。
 ボランティアは11万人の参加が予定されています。競技関係では、8万人の募集に20万人の応募がありました。2月に締め切って、今月いっぱいまで書類選考と面接をしています。現在募集しているのは聖火ランナーです。年齢は問いません。現在は聖火が他国を回ったり、火を分けて回ったりすることが禁じられているので、約130日(東京都は15日、他県は2~3日)をかけて日本全国を回ります。もしオリンピックに関わりたい方がいましたらぜひご応募ください。

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