2019年10月 9日 (水)

「バギオ訪問への誘い」

9月12日卓話要旨

鈴木 一行会員
(一財)比国育英会バギオ基金 理事)
 
本日は、来年3月に皆さんをバギオにお誘いするためにお話ししたいと思います。
 バギオのあるフィリピンには、明治時代から多くの日本人が入植し、豊かな生活を送っていました。しかし、その人たちが戦争に巻き込まれ、実際には終戦の9カ月前から、約3000人の日本人または日系の家族がマニラからバギオを目指して逃避行しました。中には、背負っているわが子がうっとうしくなり、死んでしまえばいいと思う人もいたほどで、想像を絶するような状況だったようです。一方、日本人や日系人がいわれのない罪で処刑されていました。カルロス寺岡さんもそうした経験をした一人でした。バギオで暮らしていたカルロスさんの家に、ある日、日本軍がやって来ました。父が病気で亡くなって以来、カルロスさんの家を支えていた兄のビクトルさんが、ゲリラに通じているとして憲兵隊に疑われ、殺されたのです。逆に次兄はフィリピン人から殺されてしまいます。
 戦後も日本人は現地の人たちの憎しみの的になっていました。3000人のうち、日本へ帰った人たちもいますが、フィリピン人のお母さんとその子どもということになると、残念ながら日本へ帰れません。そして、その子どもたちは日系人であると分かってしまうと、現地のフィリピン人から迫害を受けて、まともに生活できる状況ではありませんでした。そこへ救済の手を差し伸べたのが、カトリック修道院のシスター・テレジア・海野さんでした。彼女は還暦を機に、フィリピンの貧しい人々のために余生を捧げるべく、1972年バギオ市の修道院に赴任しました。迫害を恐れて日系人であることを隠し、想像を絶するほどの貧しい生活をしている人々を探し出し、その存在を明らかにして、救済、生活向上、育英に心血を注ぎました。現在、ロータリアンを中心にその活動を支えているのが、(一財)比国育英会バギオ基金です。
 さて、実際に私がバギオへ行ってきたときの様子を交えて日程を紹介します。まず、マニラからバギオへ行くとき、マニラ市内は非常に渋滞するので、警察官が先導してくれました。今までは1日目にバギオまで行っていたのですが、今回の訪問では途中のクラークで宿泊するので、かなり楽だと思います。1日目の懇親夕食会は、参加したメンバーだけで行います。厳しい体験をしたカルロスさんは、ご高齢ですが我々を迎えてくれます。ゆっくりと話され、とても穏やかな方です。
 2日目の午後、バギオ基金の寄付金によっていろいろと設備を整えたバギオ近辺の小学校を訪問します。カルロスさんが寄付金の受け入れ口になっているので、必ず地元の学校に資金が亘ります。夜はアボン会館に奨学生が集まり、一緒に食事をします。彼らは目がとてもきれいです。
 3日目の午前中は、AとBのコースを選択することができます。Bコースは日本人墓地へ行きます。ここにはフィリピンで亡くなった日本人やシスター・テレジア・海野さんのお墓があります。日本人墓地からは1000m以上の高地にあるバギオの住宅街を展望することができます。Aコースは奨学生の家庭をジプニーという乗り物に乗って訪問します。これはとてもいい経験になると思います。バギオを昼ごろに出て、夜にはマニラへ帰ってきて夕食会をします。余興でマニラ芸術大学の学生が民族舞踊やギターの演奏をしてくれます。フィリピン人は全般的に音楽の才能があるのか、非常に質の高いものを見ることができます。
 4日目は市内視察で、飛行機の出発時間までマニラの名所を幾つか巡ります。来年3月の時には行けないと思いますが、今年の2月、私は妻と一緒にスモーキーマウンテンへ行きました。不法投棄によってメタンガスが発生し、いつも煙が出ているのでこのように呼ばれていますが、そこに住み込んで管理している人たちもいて、以前よりは犯罪が起きなくなったそうですが、衝撃的でした。
 以前より楽な日程になったのは、バスでの移動が1日目と2日目の3時間ずつになったことです。3日目は6時間弱ですが、フリーウェイが整備されているので、それほど乗り心地が悪いことはありません。フィリピンは発展途上ですので、まだまだ面白いところが沢山あります。ぜひ一度行って頂きたいと思います。

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「田辺茂一と紀伊國屋書店」

9月12日卓話要旨
(株)紀伊國屋書店 代表取締役会長兼社長 髙井 昌史 氏
(福岡 正人会員紹介)
 
 紀伊國屋書店は1927(昭和2)年、新宿で創業しました。紀伊國屋は元々紀州出身で、江戸に出てきてからは薪炭問屋を営んでいましたが、創業者の田辺茂一が本屋に変えていきました。新宿3丁目で開業した当初は、売り場面積38坪、木造2階建てで、従業員は茂一の他に5名という規模でした。後にギャラリーも併設され、2階の講堂では外国語教室も開かれていました。しかし戦災に遭い、終戦直後の1945(昭和20)年にバラック建ての書店を開業しました。そして翌年には、資本金15万円の会社組織にしました。
 現在地に移ったのは1947年のことです。前川國男氏の設計で、売り場面積150坪、木造2階建てで、戦後書店建築の白眉と評されるモダンな書店でした。そして1964年、東京オリンピックの年に、前回同様、前川氏が設計した現在の紀伊國屋書店のビルが完成しました。2017(平成29)年には東京都選定歴史的建造物にも選定されています。地上9階地下2階、延べ面積3560坪のうち、売り場面積は480坪で、多くのスペースをテナントに貸しています。ビルの中には紀伊国屋ホールを造り、「紀伊國屋寄席」や演劇を公演しています。
 1966年には紀伊国屋演劇賞を創設しました。「新劇の甲子園」「演劇界の登竜門」として定評のある賞に成長し、数々の新劇人や名優がこの賞を取っており、今では最も伝統のある演劇賞になっています。50回を迎えた2015年には、記念の特別賞を制定して盛大にお祝いしました。
 フランスの哲学者ジャン・ボードリヤールが紀伊国屋を訪れたとき、「フランスには書店が出版を兼ねることはあるが、紀伊國屋のように多岐にわたって文化活動を行っている書店はない」と言って驚き、「今後の紀伊國屋書店に強い期待を持っている」と述べました。
 1966年には、哲学者ボーヴォワールの自伝翻訳を紀伊国屋の出版部が手掛けていた関係で、ボーヴォワールがサルトルと共に来社しました。このとき、ボーヴォワールの妹である画家の作品「花」が寄贈されました。茂一は民間人なので勲章などは全くもらいませんでしたが、フランスから文芸勲章騎士章を頂きました。フランス語翻訳をずっと行ってきたことで日仏の文化交流に貢献したことによる受章でした。
 1969年にはサンフランシスコに出店しました。今年7月には50周年記念のセレモニーをして多くの方からお祝いを受けましたが、当時の開店披露パーティーの際にも、日本から多くの著名作家や文人、出版社の社長、さらには銀座のクラブの方たちまで、サンフランシスコにお祝いに行ったそうです。
 茂一は戦前から数多くの雑誌を創刊しました。しかし、出しては潰れ、出しては潰れという状況で、『文芸都市』は船橋聖一、尾崎一雄、梶井基次郎、今日出海、井伏鱒二などのそうそうたる人が編纂に携わりましたが、1年で廃刊しました。その後も『アルト』『紀伊国屋月報』『レセンゾ』『あらくれ』『行動』『文学者』などを創刊し、それぞれ大作家が編纂していましたが、数年で廃刊となりました。こうした出版物は戦前、左翼思想のレッテルを張られたりして当局からにらまれていたためです。
 戦後もいろいろな雑誌を出しました。『文藝時代』『紀伊國屋月報』などはすぐに廃刊しましたが、『紀伊国屋月報』の後継として出版された『机』は1952年から1960年まで続き、その後出版された『風景』は1976年まで続きました。初代編集長は野口富士男でしたが、船橋聖一の逝去を受けて廃刊となりました。
 茂一は作家でもあり、数多くのエッセイも書きました。『六十九の非』は茂一の遺作であり、「昼間は苦虫を噛み潰したような顔をして社長業に励み、夜は銀座、六本木を徘徊する勢力旺盛な老境。69歳にして変身を遂げようとする表題作をはじめ全11篇を収録」と紹介されています。茂一は昭和の粋人であり、お昼に会社に来て昼寝をして、6時ごろに銀座に毎日行っていました。出版界は、茂一の時代が一番良かったかなという気がします。紀伊國屋には社是も社訓も社歌もありません。茂一という自由人の下で働くことができてよかったと思います。
 人生は人との出会い、本との出会いです。書店は劇場、舞台であり、書店員は出会いを演出する演出家です。観客である読者の声援があってリアル書店は生き続けます。早くからホールを備えた「文化の殿堂」をつくり、海外にも展開できたことは、創業者田辺茂一が残してくれた財産ではないかと思っています。

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「帰国報告」

9月5日卓話要旨
青少年派遣学生 川島 由楓 さん
(地区青少年委員 中島 英嗣会員紹介)


 私はフランスのアノネーという町で生活しました。熱気球で有名な町で、至る所で気球を目にしました。自然が豊かで美しく、町の人もとても親切でした。リヨンには週末、友達やホストファミリーと一緒に何度も訪れ、フランスの伝統的な家庭料理を提供するお店「ブション」にも行きました。フランス人は食べることが好きで、週末は2時間ぐらいかけて昼食を取ります。夕食の前にはアペロといって、お酒やお菓子、おつまみを食べ、9時ごろから夕食となるので、食事の時間がとても長く感じました。しかし、この時間こそ家族や友人とのコミュニケーションの場であり、食がみんなをつないでいるのだと思いました。10カ月間、生活して分かったことは、フランス人はオーガニックを選ぶ人が多いということです。有機農産物や有機加工食品のことをBIOといい、スーパーにはBIOの食品が並んでいました。
 私は3軒のホストファミリーにお世話になりました。第1ホストファミリーは空港に着くと温かく迎えてくれ、私のことを本当の娘のようにかわいがってくださいました。クリスマス前にはパリに連れて行っていただき、夢のような時間を過ごしました。ホストファミリーと一緒に祝うクリスマスはとてもすてきな時間で、プレゼントも本当の家族のようにたくさん頂きました。
 第2ホストファミリーには南フランスのマルセイユやグルノーブル、サンテティエンヌへ連れて行っていただきました。すてきなコテージに親戚が集まり、6日間毎日スキーをしました。アルプス山脈でスキーをするなんて全く想像もしていませんでした。山頂からの景色は瞬きするのももったいないくらいの絶景でした。ホストマザーが風邪を引いたとき、私がミネストローネとタルティフレットを作ると、とても喜んでいました。ホストマザーとはすっかり仲良しになり、夕食後は毎日おしゃべりをし、フランス語もたくさん教えてもらいました。
 第3ホストファミリーとは、エクサンプロヴァンスやロクシタン発祥の地マノスクに行きました。一緒におすしやギョーザを作ってコミュニケーションが深まり、仲良くなれました。先祖は気球を発明した人だというホストファザーが運転する気球で、1時間ほどアノネーの町を飛行し、フランスの食文化はこの素晴らしい雄大な自然の豊かさから生み出されたのだと改めて実感しました。
 フランスの学校は休日が多い代わりに1日が長く、9時間目まであり、午後6時に終わることも多々ありました。「芸は身を助ける」といいますが、私が友達に筆で色紙に名前を書いたことがきっかけで、書道ブームが起きました。授業の合間にもクラスメートから「書いて」と頼まれ、書道をきっかけに友達の輪を広げることができました。
 私は経済系の大学を志望する人のクラスにいて、他の生徒と同様、日本でいうセンター試験のようなものを年度末に受験しました。みんなの将来が懸かっているので迷惑はかけられないと思って、私も頑張りました。私たちは3人グループで15分ほどプレゼンし、チームで一つのプロジェクトを成功させるにはどうしたらいいかを学びました。
 また、担任の先生に、日本とフランスの違いについてプレゼンをしてほしいと前日に頼まれ、それをフランス語で行うことにしたのですが、たくさんのクラスメートが真剣に寄り添ってくれました。その凝縮された時間は貴重な思い出となり、持つべきものは友だ、自分の頑張り次第で変われるということを学びました。
 4月の初め、さまざまなアーティストが集まって、町の人に作品を買ってもらい、そのお金の一部を病気の子どもに寄付するチャリティイベントがありました。私は浴衣を着て書道パフォーマンスをし、1作品15~40ユーロで15作品ほど買ってもらいました。感謝の気持ちを込めて全額寄付しましたが、このイベントは異国の地で無力感を抱いていた私に勇気とやる気を与えてくれました。
 私のホストロータリークラブには、私を含め3人の留学生がいました。地区には60人ほどのインバウンズがいました。日本人は私だけだったので最初はとても不安でしたが、下手でも伝えたいという気持ちがあれば仲良くなれることを知りました。今後はもっと多くの人とコミュニケーションを積極的にとり、自分の世界を広げていきたいと思います。今後はこの経験を生かして社会貢献を行い、恩返しをしたいと思います。

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2019年9月11日 (水)

「芸術文化振興の新たな取り組み ちよだ芸術祭」

8月29日卓話要旨
オペラ歌手・ちよだ芸術祭プロデューサー 志田 雄啓 氏
(堀田 康彦会員紹介)
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 ちよだ芸術祭は、子どもから大人までに良質な音楽を届けることを基本的な姿勢としています。公募の合唱団やワークショップなどを開催して音楽に触れる機会を提供することと、ワテラスのロビーや和泉小学校、かがやきプラザ、かんだ連雀などいろいろな所に歌手を派遣して身近に音楽を楽しんでいただくことという、二つの事業を展開しています。
 ちよだ芸術祭が他の芸術祭や演奏会と異なるのは、発起人が芸術家であるということでしょう。これは当たり前のことではなくて、大半は行政が旗を振り、高名な先生を連れてきて文化祭や演奏会を行うパターンか、民間から盛り上がって区が助成金を出すパターンです。しかし、行政主導の場合、3年間ぐらいで助成金が切れるので、その時点で立ち消えになることが多いのです。高名な先生は地元に何の思い入れもありませんし、市民も有名な先生がいなくなるならもういいかというふうに受け入れてしまいます。一方、民間の愛好家が行政に支援をもらう場合はどうかというと、企画自体は大変素晴らしいのですが、つてがないので、良質な音楽家に出会ってさらにいい芸術祭にする部分で難航します。
 そういう点でちよだ芸術祭は、私を中心とした芸術家が発起人となり、区民の皆さんに徐々に広がって、堀田様にも協力していただいて、区の支援を頂く形でだんだん盛り上がっています。地元に根差し、ボトムアップで盛り上がっていく芸術祭として、これまで見たことのない感じで行っています。
 特徴の一つは、一緒に触れ合うところです。一般からの公募で合唱団を組織していて、稽古は10回あるのですが、そこにプロの歌手2~3人が参加しており、舞台ではプロのソリストと市民が一緒に歌います。芸術において一番良いのは、上手な人の隣で歌ったり、近くで感じたりすることです。これが芸術文化の振興で一番重要なことだと思っています。例えば、とても高名な歌手の歌唱を100m離れて聴いたところで、感動はしますが、それだけです。しかし、そこまで高名ではなくとも、素晴らしい歌手が同じ歌を5cmの距離で歌っていれば、効果は全く違うと思います。そのような思いで、ちよだ芸術祭のコンサートに臨んでいます。参加される方は面白いと思ってくださっているようで、90人ぐらい集まってだいぶ盛り上がっています。
 もう一つの特徴は、触れ合いの場を提供することです。私の経験からもぜひ推進したいと思っています。私が東京藝術大学の学生だった頃、あるパーティで歌ったところ、主催者の社長の小学3年生ぐらいの子どもが楽屋に来て、「素晴らしい歌だった」と15分ほど語ってくれたのです。それを見ていた宮田学長から「いいことをやったな」と褒めていただきました。人は一定の年齢に達すると、美しい絵を見ても演奏を聴いても、良いと思えなくなるそうです。「その子は、これから良いものを見たり聞いたりしたときに感動する気持ちを与えられた」と宮田学長はおっしゃいました。ですから、小さな力ではありますが、私は地元・千代田区でそういう機会を少しずつでも子どもたちに与えられたらと思っています。また、私は病院や養老院に行って歌う機会があるのですが、歌うと皆さん大変感動されるのを何回も見てきて、社会貢献は特にしなければならないと思いました。この二つの気持ちで事業を進めています。
 芸術祭に参加してくださっている歌手や演奏家の皆さんは、音楽的にも人間的にも大変信頼する方々で、今回の趣旨を理解して積極的に関わってくださっています。小学校に行って歌うと、やはり何か衝撃があるようで、子どもたちは目を丸くします。そういう顔を見て、帰りの電車の中では「やってよかったね」という話をされています。このように直接触れて、参加して、芸術家と市民がより密接に絡み、交流することを目標にして、ちよだ芸術祭を進めています。
 将来的には、居酒屋などに入ったときにその辺に座っている人から「この前のコンサートでは声がおかしかったね」と言われるような、いろいろな場所で音楽談議ができるような環境になれば素晴らしいと思っています。音楽談議ができるということは、それだけ音楽が好きだということだからです。
 私はちよだ芸術祭を10年は絶対に続けていきたいと思っていて、これから先、神田の街がどのように変わっていくのか楽しみです。ぜひとも皆さまのご協力をお願いできれば幸いです。

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「東京オリンピック1年前」

8月8日卓話要旨
JOC名誉会員・丸天流通グループ代表 平岡 英介 氏
(井上 貴夫会員紹介)
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 オリンピックといえば総合競技大会を思い浮かべるかもしれませんが、近代オリンピックは平和や国際協調(オリンピズム)を具現化するために復活されたものです。当時のヨーロッパは戦争中だったのですが、古代オリンピックでは大会期間中、停戦していたので、クーベルタンがそれに倣って復活させたのです。そうした大きな目的のために競技大会があるので、単にメダルを取ればいいわけではありません。フェンシングや射撃、馬術など戦に関連する種目が多いのも、戦をスポーツとして昇華させるためです。このオリンピズムを普及させることがオリンピック委員会の務めです。
 しかし、近代オリンピックでは、政治的介入やボイコットなどさまざまなことがありました。モスクワ五輪では米国の意向で西側諸国がボイコットし、続くロサンゼルスではソ連をはじめとする
東側諸国がボイコットしました。モスクワではフランスやイタリア等は参加し、イギリスも政府の命令に
反して有望な種目では出場しましたが、日本はメダル候補が何人もいたにもかかわらず、アメリカからの強い圧力で、最終的に政府から「来年からスポーツに補助金を出さない」という脅しがあり、泣く泣く参加を諦めることになりました。
 また、ミュンヘンのときにはテロもありました。そのとき国際オリンピック委員会(IOC)は中止も考えたのですが、オリンピックはスポーツの力によって国際平和、国際協調、友情を育むものなので、犠牲者のためにも競技を続けることにしました。
それから、オリンピックの歴史を大きく変えた一つがドーピング問題です。男子100mのベン・ジョンソン(カナダ)は禁止薬物の検出で世界記録を抹消され、30代の若さで亡くなった女子100m世界記録保持者のフローレンス・ジョイナー(米国)にも薬物疑惑があります。従って、命を賭けて薬物を使用しても金メダルが欲しいという考え方は間違っているとして、現在はドーピング検査が厳しく行われています。
 もう一つの大きな変化は、プロに門戸を開放したことでした。オリンピズムを普及・発展させるためにも、各競技の最高の技術や力を示すべきであり、プロを締め出すのはおかしいという意見がありました。そのため、国際競技連盟ごとにプロ解禁時期は異なるものの、ある時期からプロも出場できるようになりました。現在はゴルフやテニスもプロが出場しており、今回からボクシングも出場が認められています。
つい最近では、男女差別もオリンピズムに反するとして、ほぼ全競技で男女同数になりつつあります。前回の東京五輪のとき、女子種目は本当に限られていましたが、現在は同種目同人数となるだけでなく、男女混合種目を作るなどしています。オリンピックも時代に合わせた変遷が進んでいるのです。
 日本オリンピック委員会(JOC)ができたのは1911年です。オリンピックに出場するには、その国にオリンピック委員会がなければならないので、ストックホルム大会前に発足し、柔道で有名な嘉納治五郎が初代会長となりました。
来年の東京大会は、こんなに順調な大会は初めてという評価を頂いています。施設も順調に建設されており、ハード面では全く問題がありません。ただ、ソフト面ではセキュリティの問題があります。オリンピックに限りませんが、非常にサイバーテロが多くなっています。現在では、会場に爆弾を持っていくのはほぼ無理なので、ミュンヘン五輪のようなテロは起きないでしょう。代わりに、サイバーテロで大会システムを壊したり、変電所を狙って停電させたりする方向に変わってきました。これに関しては2年ほど前から英知を集めて、何とか防ごうと対策しています。
 もう一つ問題になっているのが暑さ対策です。選手は涼しい所に一時退避できますが、観客は涼む場所もないので、熱中症になってしまう危険性があります。そうした問題も含めて検証するため、来年に向けてプレ大会が各種目で行われています。
 ボランティアは11万人の参加が予定されています。競技関係では、8万人の募集に20万人の応募がありました。2月に締め切って、今月いっぱいまで書類選考と面接をしています。現在募集しているのは聖火ランナーです。年齢は問いません。現在は聖火が他国を回ったり、火を分けて回ったりすることが禁じられているので、約130日(東京都は15日、他県は2~3日)をかけて日本全国を回ります。もしオリンピックに関わりたい方がいましたらぜひご応募ください。

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2019年9月 2日 (月)

「神田あれこれ」

8月1日卓話要
纐纈 公夫会員 ((有)大屋書房 代表取締役)
(井上 貴夫会員紹介)

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 神田のメインストリートである靖国通りには、今から45年ほど前、京葉道路から新宿に抜ける高架道路の計画がありました。しかし、私ども書店街が高架化に反対したため、計画が中止になりました。新宿線を通す前、最初に神保町に開通したのは三田線で、そのときには高架道路のための基礎が地下に造られていました。そのため、今のところ神保町の交差点にエレベーターやエスカレーターを造るにはかなりの予算が必要らしく、新たに設置するのは難しいようです。今後も高架道路計画が再開されないようにしていきたいと思っています。
 さて、この靖国通りは江戸時代までさかのぼると、すずらん通りと同じくらいの幅だったようです。しかし、3度の拡幅を経て現在の広さが確保されるようになりました。専修大学前から俎橋(まないたばし)まで直線となったのは明治の末年で、今川小路という小さな道を貫通させて今の靖国通りができています。
 神保町1丁目1番地にある三省堂書店の並びの角から水道橋へ向かう錦華通りは、一度も拡幅が行われていません。猿楽町は、いまだに江戸時代からの姿で存在しているのです。戦前は台風が来るたびに死傷者が出るような崖崩れもあった場所なのですが、今もそのままの形で残っているという大変希少な場所でもあります。
 一方、神保町は元々1680年ごろ、神保長治という方が屋敷を構えたことから、その付近の小路が神保小路と呼ばれ、明治以降その付近一帯の名称として呼ばれるようになりました。この町は1丁目から3丁目まであり、一時期は6丁目までに区画整理する案もあったようですが、いろいろと議論された結果、元のままになったそうです。現在、靖国通りを中心に偶数・奇数で左右に分かれていますが、これは日本郵便制度の基になったフランスに倣ったからのようで、欧米の事柄を取り入れた先進的な場所だったといえます。
 実際、神田の界隈には、かつて江戸の実務を支えていた旗本が多く住んでいました。そのため、彼らが勉強しやすくなるように、徳川家康の侍講だった林道春が上野の忍が岡に建てた弘文堂という塾を湯島に移すことになりました。このことによって、神田は学問の素地となりました。
 九段下の交番の裏には、1855(安政2)年に蕃書調所がつくられました。これは、外国との交渉のために外国の書物を調べるためにつくられた学校です。その後、一ツ橋に開成所という名前となって移転しました。ちょうど現在の学士会館辺りです。そして、開成所は大学南校となり、大学東校と合併して、加賀百万石の屋敷跡に現在の東京大学が設立されました。なお、ご存じの方が少ないようなので補足しますと、その南校時代にウイルソンという先生がいて、その方が野球を日本に紹介したとされています。後楽園にある野球殿堂博物館にはかなり前から、学士会館の跡地が野球発祥の地だという表示もあったようですし、すずらん通りにある靴屋にボールの縫い目を直しにもらいに来たという記録もあったそうです。その裏付けが確認されたので、学士会館に「日本野球発祥の地」記念碑が建てられたという経緯があります。
 しかし、この神田という先進的な地域であっても、われわれが扱っている書物で見ると、少なくとも1900(明治33)年ごろまでは、庶民の生活はほぼ江戸時代のままだったようです。生活が洋風化するのは、日露戦争が終わった1905年以降のことです。江戸の町は、水運で利便が図られていたこともあり、道路の造りが大きく変わっていったのもそれ以降のことです。ただ、近代化による問題も同時に発生していたようです。例えば、現在は駿河台下の真正面が錦華通りとなっています。今は分離帯があるので問題ありませんが、かつてはメインストリートがあまりに近代化し過ぎて、大変な事故が起こるなどの弊害もあったようです。
 このように、江戸時代から地形はだいぶ変わってきています。しかし、例えば白山通りでは拡幅などによって、今後も新しい道ができる予定です。既に小学館ビルなどはセットバックしているので、拡幅化の準備はできています。神保町界隈は「古き良き東京」というイメージを抱かれますが、ただ伝統を守ってきた場所というだけでなく、かつては先進的な場所であり、現在も徐々に変化し続けている町なのです。

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「ガバナー公式訪問」

7月25日卓話要旨
 国際ロータリー第2580地区
2019~20年度ガバナー 新本 博司 氏

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 私は、東京神田ロータリークラブができた1964(昭和39)年の3月に沖縄県石垣島の高校を卒業し、上京しました。まだ飛行機も通っていない頃だったので、鹿児島まで船で渡り、そこから汽車で24時間かけて東京に向かいました。ちょうど東京オリンピック前の喧噪の時代です。千駄ヶ谷で住み込みのアルバイトをしながら専修大学に通った私にとっては、この神田神保町というのは青春時代を過ごした場所です。一生忘れられない地域であり、これからも私の人生を左右する場所ではないかと思っています。
 やはり人の縁というのは、とてもいいものだと思います。東京神田RCは55年という歴史を重ね、第2580地区の中でも伝統と重みのあるクラブです。このクラブからこれまで3名のガバナーが出ており、多田さんはパストガバナーとして、クラブの陣頭指揮はもちろん、第2580地区だけでなくRIに大きな影響力を持っておられます。私が新入会員だった頃にも、いろいろな刺激を受けました。
 私が多田さんから教えられたことの中で特に重きを置いているのは、ロータリーは何のためにあるのか、なぜロータリーができて、現在のような状況にあるのかということです。120年経とうとも、ロータリーの中核的価値は変わらず守られており、変えてはいけないものだと教えられました。これまでと変わらないことを守るとともに、ロータリーを通じてわれわれの幸せを具現化していくことを多田さんは言ってこられたのだと思います。その伝統は恐らく、以前のガバナーも伝えてこられたのではないかと思います。
 東京神田RCが3名のガバナーを輩出することにより、第2580地区全体に示唆を与えたことは否定できない事実です。そして、これからどのようにわれわれが新しい時代を担っていくかというのは、重要な意味を持つのではないかと思います。この時期に私がガバナーに指名されたのも何かの縁があると考え、クラブの活性化に少しでも寄与できればと考えています。
 120年も続くと、人も時代も変わり、価値観も変わってくるかもしれません。その中で、変わらぬものを堅持しながら時代にどう対応していくかが、われわれが等しく抱える課題だと思います。年を重ねてロータリアンとしての重みを増している方々を見ると、どのような思いを持っているのかというのは大変興味深いことです。そういう方々が後進に思いを伝えていくことは、とても重要なことではないかと思います。やはり楽しいから続けていられるのでしょうけれども、その裏にある思いを知ることが重要です。
 クラブでお互いの意見を述べ合うことによって、ロータリーに入ってよかった、幸せな人生を歩んだということがあれば、ロータリーはわれわれにとって大きな意味を持つと思います。全員が幸せだったと言えれば最高ですが、いろいろな方がいるでしょう。その中で一期一会の精神でつながって、ここに集まっているわけです。つながりを大事にしていくことは、将来に大きな影響を与えるでしょう。その縁をいかに大事にしていくのかが、いま私に与えられた課題だと思います。先輩方からの知恵もお借りできれば幸いです。
 今やわれわれの環境は、以前よりも複雑になり、毎日変化しています。例会に出席したくても出席できず、出席率が悪くなる可能性は十分あります。そこでマローニーRI会長は、出席率を高める方法として「家族を巻き込んで、例会に一緒に出席する雰囲気を作ってほしい」と言っています。要するに、何が大事かを見極めて多様性に応えていかなければ変化に対応できないということなのだと、私は解釈しました。
 マローニー会長が言っているのは、「ロータリーは世界をつなぐ」という1点です。人種や国境を超越して、心をつないで、世界をつないでいけば、平和でお互いに幸せを感じられます。家族やクラブを大事にしながら、地域のことに積極的に取り組んでいきましょう。神田という街に住み働く皆さんが、後輩にもぜひ住んでほしいという思いをつないでいってほしいのです。治安が良くて安全であれば、多くの人がこの地域にやって来て、人口減少もなくなります。神田という素晴らしい街を皆さんの力で支えてください。私も一期一会の思いを皆さんとかみしめながら取り組んでいきたいと思っています。

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2019年7月23日 (火)

「人生100年時代に向けて摂りたい栄養のお話~少しの工夫で賢く栄養がとれる~」

6月20日卓話要旨
東京慈恵医科大学附属病院 管理栄養士 赤石 定典 氏
(島田 隆之会員紹介)

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 最近は人生100年時代といわれ、平均寿命は男女とも80歳を超えましたが、平均寿命から健康寿命(誰の手も借りずに健康で生きられる期間)を引くと、約10年は健康でない状態で生きていくことになります。その期間を短くするには、まず寝たきりを防ぐことです。
 寝たきりを防ぐには、栄養状態を改善し、手術後は多少痛くてもすぐにリハビリを始め、退院後も外出することが大切です。風邪を引いたり、精神的に落ち込んだりして食欲が落ちると、免疫機能が落ちます。すると、また風邪を引いたり、筋肉が落ちて転倒・骨折して寝たきりになったりします。これが低栄養の負のスパイラル(低栄養症候群)です。ですから、骨折さえしていなければリハビリはすぐ始められますので、そのためには痩せ過ぎず、筋肉量を維持し、骨粗鬆症を予防するために必要な栄養を摂ることが重要です。
 しかし、いくらいいものを摂っても吸収できないと意味がありません。体に必要な栄養素の99%は小腸で吸収され、大腸では要らないものを出しています。腸を健康な状態に保つには、腸内細菌をしっかり確保することが重要です。
 腸内細菌には善玉菌と悪玉菌と日和見菌があります。善玉菌は悪玉菌の増殖を抑え、ぜん動運動を促します。悪玉菌は発がん性物質を作りますが、免疫力の向上やビタミンの合成など有益な働きもします。日和見菌は顔色をうかがって、いい方についていきます。日和見菌を悪玉菌につかせないためには善玉菌を悪玉菌より多くすればいいのです。つまり、腸内フローラのバランスを善玉菌2:日和見菌7:悪玉菌1にすることです。
 善玉菌を増やすには、納豆やキムチ、麹やみそ、ヨーグルトやチーズなど発酵食品を食べるといいでしょう。また、善玉菌の餌となる食物繊維(特に水溶性)が大切です。そこでお薦めなのが大麦(もち麦、押し麦)です。大麦に多く含まれているβ-グルカンは、正常な腸の機能維持や排便促進効果、食後の血糖値上昇の抑制、コレステロール値の低下、心疾患のリスク低減などの効果があります。
 負のスパイラルを防ぐ料理としてお薦めなのは肉豆腐です。肉豆腐には動物性タンパク質も植物性タンパク質も含まれているからです。動物性と植物性は1:1で摂るのが理想です。肉豆腐に炊き込みご飯や、卵料理、野菜料理を添えると栄養バランスが良くなります。また、鍋料理もお薦めです。鍋は具材を変えることでさまざまな栄養を摂れます。力士はちゃんこ鍋を食べますが、ご飯を最初に、または一緒に食べると体重を増やせます。一方、鍋の具材から食べて、締めにおじやを食べると痩せられます。おじやは汁の栄養も全て吸収できるので、しっかりと栄養を摂れます。
 家で調理しない人には「お酢ワーク」を提案します。酢の適量は大さじ1~2杯です。酢は血糖値上昇を抑え、血圧を下げ、内臓脂肪を減らし、疲労回復やカルシウム吸収の補助、食中毒予防などの働きがあります。料理では、小あじの南蛮漬けがお薦めです。小あじと酢を一緒に摂ることでカルシウムの吸収率を上げますし、油で揚げてあるのでカロリーもしっかり摂れます。また、鶏手羽などは酢と一緒に煮てから焼くことで、骨のカルシウムを外に出すことができるのでお薦めです。しじみのみそ汁は、しじみを煮る前にリンゴ酢を入れて貝殻のカルシウムを出すようにします。酢を摂るためにも、専用のボトルを持ち歩くといいでしょう。
 今は飽食の時代なのに、必要な栄養は摂れていません。しかし、少しの工夫で賢く栄養を摂ることができます。カルシウムは吸収率があまり良くなく、10代でも約40%、60代では約10%に落ちてしまいます。特に野菜からの吸収率が良くないので、ビタミンDや酢酸と一緒に摂るといいでしょう。コンビニ弁当などの場合は、枝豆を加えると栄養バランスが良くなります。枝豆は植物性タンパク質と緑黄色野菜のいいとこ取りなのです。家で調理するときはフライパンで蒸し焼きにするとビタミンCの損失も少なく味も良くなります。
 また、ピーマンのワタは捨てず、ゴボウも皮剥きやアク抜きをしないで食べると、栄養が無駄になりません。そうするとごみも少なくなり、調理の手間も省けます。栄養素を理解するだけで料理や食べ方が変わり、意識も変わるのです。そうして健康長寿でいることが一番の社会貢献になると考えています。

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「100年目の神田駅-駅とその周辺の移り変わり」

6月13日卓話要旨
NPO法人神田学会理事 小藤田 正夫 氏
(久保田 和人会員紹介)
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 鉄道は文明開化の象徴で、産業革命そのものです。時間の概念を覆し、お金を払えば誰でも平等に乗れるという、近代化の意味を示す上で非常に重要なものでした。明治5年に新橋・横浜間に初めて鉄道が引かれ、明治16年には熊谷方面から上野に入って青森まで行くために、品川から線路を作っていって、明治22年には新宿から立川まで中央線が、そして明治27年ごろから旧江戸城下の牛込に入り、明治45年には万世橋まで開業します。明治政府はお金がなかったため私鉄で建設をどんどん進めていき、明治36年には甲武鉄道が飯田町から万世橋まで、総武鉄道は本所から秋葉原まで、日本鉄道会社は上野から東京まで線路を延伸する計画が立てられました。明治40年にはこれらが国有化され、東京市街高架線建設工事は官営で行われることとなり、大正3年に東京駅が日本の中央停車場として造られました。
 大正8年(1919)3月1日には中央本線が万世橋駅から東京駅まで延伸され、神田駅が誕生しました。既存市街地の中に駅を作ったのは、神田駅が日本で唯一だと思います。神田はこのために1万坪の土地を提供しました。鉄筋コンクリートの杭を9000本打ち込んで基礎を作り、アーチ橋を組み上げて、れんがと御影石で化粧をしました。当時の運行は「の」の字運転と称され、神田が事実上、東京の中心地になるということで、開業当日には神田区主催で大祝賀会が開かれ、仮設舞台では講武所芸妓百余名による踊りなどが夕方まで続きました。神田駅は電車専用の駅で、待合室等はホーム上にありました。外は赤れんが、中は白タイルで化粧し、天窓から明かりを採るなど、一つ一つがきちんとデザインされており、手荷物預かり所もありました。
 ところが、3年半後に関東大震災が起き、神田は丸焼けになります。線路の枕木も燃えるような火事で、れんが造りだから安心だと思って神田駅構内に避難していた多くの人は、焼死してしまいました。神田駅では戦前まで毎年、慰霊祭が行われていました。
 震災後、東京・上野間の電車専用線の高架工事が急ピッチで進められ、大正14年に完成しました。京浜東北線は上野まで延伸され、神田駅には第2ホームが誕生して山手線と併用になりました。昭和3年には汽車専用線2線が東側に完成し、神田駅は線路が6本になりました。東側は震災後、大規模な区画整理が行われ、昭和恐慌もあって高架工事は実施されませんでしたが、この区画整理で線路を境に町名を作ってしまい、これが今も出張所の単位になっています。線路がコミュニティを分けることは直接的にはないのですが、間接的にコミュニティもそれを引きずってしまうのです。それから地下鉄が入ってきて、昭和6年には万世橋の駅が廃止されて、現在の神田駅が開業します。須田町には地下鉄ストアもありました。
 それが、米軍の空襲で再び焼け野原となりました。戦後まもなく、焼失した神田大通りや金物通りには生活用品を売る露店が集まり、昭和22年ごろには震災復興の区画整理で誕生した神田駅東側の鉄道用地にもアツミマーケットと呼ばれた飲食店が入ってきました。昭和25年にはGHQの指令で道路上の露店は取り払われ、そこにいた人たちは協同組合を作り、東京都が造った残土の埋め立て地に移りました。昭和27年の講和条約で占領軍は撤退し、神田駅西口の商店街は人通りが多くなりましたが、マーケットは手つかずのままでした。
 戦後復興が進みだすと、山手・京浜東北線を同一で線路で運行するには限界となり、神田駅付近でも鉄道用地を使ってホームと線路の増設をする必要が生じました。そこで、国鉄はマーケットへ立ち退きを要求しましたが、マーケット側は30年間の借地権を主張して譲りませんでした。昭和28年に国鉄は裁判所に土地明け渡しの仮処分を請求し、マーケット側へ保障することで工事は再開され、昭和31年に現在のようになりました。神田駅は3面のホームと8線を有する駅となり、大規模な改修が行われました。
 実は当時、丸ノ内線が池袋方面からお茶の水まで延伸していて、神田駅に入る計画があったのですが、東側でもめていたので今の淡路町に移ってしまい、これで神田駅がターミナルになる機会を失いました。
この3月1日には100周年記念として鍛冶町2丁目町会では御神輿を出し、駅や地元商店街でも色々な事業が催されました。地域が一体になって駅の開業100周年行事をやるのは神田ぐらいです。駅が、これからも地域をつなぐものであってほしいと願っています。

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「いま持っている株は手放しなさい!」

6月6日卓話要旨
株式会社ティーモデルアイ代表取締役 塚澤 健二 氏
(清水 宣夫会員紹介)
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 株価の急落は半年ごとに起きています。昨年1~3月に「VIXショック」と呼ばれる急落が起き、昨年10~12月にも起きました。しかし、下げ幅が大きかったにもかかわらず原因が分からないので、名前がありません。直近では今年5月から起きていて、次は今年秋か年末ごろと予想されます。暴落と急落は異なるものであり、急落は下がっても元に戻りますが、暴落は一度下がり始めると止まりません。今年秋から年末に予想される急落は、ひょっとすると暴落の始まりになるかもしれません。
 VIXショックは、米国の長期金利上昇がきっかけでした。昨年10月の急落も米国の金利上昇が原因でしたが、12月の急落では金利が下落する過程で株価が下落しました。これ以降、市場関係者は下落の背景が分からなくなり、上昇する理由も分からなくなったので、とんちんかんなことを言い始めています。それが暴落の引き金となる可能性があります。
 世界は今、金融緩和の状態です。伝統的な緩和策の一つは金利を下げる方法です。米長期金利が下がる過程で、ニューヨークダウは上がっていきます。2016年まではそういう形でしたが、今は乖離しています。つまり今回は、金利引き下げで株価が上がっているわけではないのです。もう一つの策は量的緩和です。FRBの資産は2014年12月以降減っていますが、2016年10月以降は逆に株価が上がっています。つまり、伝統的な二つの緩和策が全く使われていない中で今回は株が上がっているのです。FRBの金利下げを市場関係者は歓迎していますが、私は下げたら株が暴落すると考えています。これは世間の見方と真逆です。
 今は米国のイールドスプレッド(10年物の利回りと2年物の利回りの差)が小さくなっています。実はこれが第3にして最後の緩和策なのです。昨年の2回と今年5月からの株価急落は、金融緩和の中で一時的に引き締めが起き、イールドスプレッドが拡大したことが原因です。5月5日にトランプ大統領が中国からの輸入品2000億ドル相当への関税引き上げを表明し、株価が下がりましたが、それはきっかけにすぎません。一時的な引き締めであり、また緩和されれば株価は戻ります。ですから、今ぐらいが最後の買い場であり、秋以降に株を手放すべき場面が到来します。秋には英国のブレクジット問題やドイツ銀行の問題も余談を許さなくなるでしょう。ドイツ銀行がつぶれると、世界中の金融が混乱しますから、ドイツ銀行の株価をチェックするといいと思います。
 それから、ドル建ての日経平均株価は、米ナスダック指数と連動しています。今は乖離していますが、重なるときが来ます。重なると、株価が上がっているときは下落に向かいます。ですから、これから夏の参院選ぐらいまでに2万4000円台まで上がって重なり、その後は下落するはずです。そうなると怖いと考えるといいでしょう。
 それを操作しているのが外国人投機筋です。彼らは直近で過去最低ぐらいまで日本株を売っていますが、また買い上がってくるので、ここを買っておけば株価は上がります。彼らが2014年まで日経平均を動かしていたわけです。2014年以降乖離しているのは、アベノミクスでGPIFと日銀のETFの資金約60兆円を株式市場に入れたからです。そうでなければ日経平均は8500円になっていたはずです。あれから5年たっているので、GPIFもETFも今秋には何か変更が起こり、これが株を暴落させる可能性があるので、注目すべきです。とにかくいろいろなことが今秋以降、非常に危険な時間帯を迎えます。
 人手不足も、人口減少によって起きているのではなく、60兆円の資金を日本の株式市場に投入したことによってつくり上げられたものです。今後、株価が暴落すると、有効求人倍率は急落して人余りになります。つまり、アベノミクスはそういう状況になるまでに6年間の猶予をくれたことになり、われわれはその間に何をしていたかが問われることになるわけです。
 日銀は、株価を支えるために年間6兆円のETFを買っていますが、日経平均が1万8400円まで下がると日銀のETFは簿価割れになります。1万7700円まで下がると赤字に転落します。1万1700円まで下がると債務超過になります。ですから、結局は自分の首を絞めることになりかねません。外国人が売り崩しを狙ってくるときにはこの三つの数字をターゲットにしてくるので、皆さんもこれらの数字を覚えておいてください。

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