2020年3月31日 (火)

「2050年の社会保障」

2月6日卓話要旨
株式会社医薬経済社 編集長 森下 正章 氏
(荻原 年会員紹介)
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 2050年というと随分先の話ではないかと思われるでしょう。皆さんのお孫さん世代がちょうど2050年に働き盛りになると思います。その頃、特に医療を中心にどうなっているのか、孫にどう残していくのかという問題意識を、頭の片隅に入れていただければと思います。
 日本経済は今、そんなに豊かではありません。2011年の世界・収入不平等指数(ジニ係数)ランキングによると、日本は37.9%で、141国中73位と世界で真ん中ぐらいの順位でした。そもそもジニ係数40%以上は社会騒乱の警戒ライン、60%以上は危険ラインといわれています。2014年の日本は、所得再配分後は37.6%でしたが、再配分前は57.0%と結構危険ラインでした。税金を徴収して分配していればそんなに心配ないと厚生労働省は言いますが、そもそも分配前に一人一人の所得にかなり差が生じています。これが後々大きな影響が出るのではないかと内々では議論されているのです。
 2050年というのはどういう世界かというと、第2次ベビーブーム世代(昭和47~49年生まれ)が73~75歳になり、日本が最も高齢化になる時代です。つまり、本当の意味で深刻な時代が来るのが2050年なのです。
 一方で、結婚率がどんどん低くなっています。結婚できるだけの収入がないため結婚しないという人が約2割もいます。このままいくと、最終的に誰からも保障されない世界が来てしまいます。老後でなくても現時点で生活が厳しいのですから、日々の生活費もままならなくなる可能性も高いのです。そうした人を支えられる制度は生活保護しかありません。
 しかし、2050年時点で最も深刻になるのが医療保険と介護保険です。年金は2050年でも意外と持つと予測されていますが、医療保険と介護保険は、働いた人が所得に応じて保険料を払うシステムです。また、いつ大病を患う人が続出するかといった不確実性が高過ぎる制度でもあります。そして、医療はどんどん高度になっていく分、医療費も高額になっていきます。だからといって医療保険を使わせないとなると基本的人権を侵害してしまうので、なるべく使わないで健康でいてくださいとお願いしていくしかないわけです。
 しかし、2050年には生活保護受給者は4割に上ると財務省や厚生省が予測しています。生活保護受給者は医療保険料の適用除外となり、医療費が支給されます。つまり、医療費を負担してくれる人がますます減っていくのです。少子高齢化の中、そして生活保護受給者が増加する中で支えていくことは、どれだけ大変なことかお分かりいただけたでしょう。
 今の安倍政権が2021年に退陣した場合、後任は恐らく岸田文雄さんか石破茂さんになるでしょう。岸田さんの社会保障路線はいまいち見えてきませんが、基本的に安倍政権を踏襲する形になると思います。一方、石破さんが政権を取ると、恐らく消費税再増税を検討するといわれています。
 ところで、消費税自体は社会保障の財源になっていると思われている方が多いでしょうが、医療費に回っているのは消費増税分の1%あるかないかです。そのほとんどは赤字国債の返済と年金に当てられていて、医療費と介護費には回っていません。結局、社会保障を必要とするなら、保険料を上げなければいけないのです。不確実性の高い医療制度を運営するには、その方が実は運営しやすいという面もあります。しかし、結局は収入を上げていかないとつぶれてしまうことになるでしょう。
 年始に政府が予算編成をしていましたが、政府の決算書を見ると予算と決算がまるで違います。今どこにお金が行っているのか、実は解明されていないところが多いのです。実際に医療費や介護費がどれくらいかかっているのか、誰も分かっていません。結構恐ろしいことをしている国ではあるので、2050年に向けてそういうものも見ていただけると、安心して暮らせるかなと思います。
 日本が目指す姿は、そこそこ所得があって、税金や保険料をそこそこ払える世界なのかもしれません。ですが、10年先、20年先と先送りしている課題が、孫の世代に山積みとなって現れる時代になるわけです。一方、この2050年を乗り切れば、根本的な問題は解決するともいわれています。ですので、あと30年、少しでも良い未来を子や孫たちに残していくために、今から皆さまで頑張っていければと思います。

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「マンドリン演奏でみんなを元気に─慰問活動のお話と演奏」

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1月30日卓話要旨
マンドリンアンサンブル志木会 代表 加藤 裕樹 氏
(荻原 弘幸会員紹介)
 
 われわれマンドリンアンサンブル志木会は、メンバー全員が慶應義塾志木高校マンドリンクラブのOBです。私が高校に入った頃は音楽系クラブが少なかったのですが、昭和39年のちょうど東京オリンピックの年に、数人の同期でマンドリンクラブを創立しました。
 高校を卒業し、ほとんどのメンバーは楽器から離れていましたが、4年ほど前に母校でマンドリンクラブの第50回記念定期演奏会が催されました。そのときに、高校生だけでなくOBもステージに上らないかという話が出て、創成期のメンバーだけで指のさび落としを始めました。そして、演奏会が終わっても久しぶりの楽しい緊張感が忘れられず、そのままアンサンブル結成へと至ったのです。
 われわれが使う楽器は、マンドリン、マンドラ、ギターの3種類です。中でもマンドリンはファーストとセカンドに分かれて異なるメロディを演奏しているので、全部で四つのパートでの演奏となります。
 ご存じのことかと思いますが、数え年70歳を「古希」といいます。この言葉は杜甫の詩「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」から来ています。しかし、人生100年時代を迎えた今、もはや70歳は古来稀な存在ではありません。それよりも、老人としての入学式に当たる節目の年代になったのだと思います。従って、当会総勢10名の「アラ古希」メンバーは、これから世のため、人のため、役に立っていくべき役割を担い、そのスタート地点にいるのだと認識しています。
 われわれは楽器演奏の経験を生かし、老人ホームを訪問して童謡や歌謡曲、演歌などを演奏する活動を続けており、ホームの皆さんに楽しんでいただいています。この活動はアンサンブル結成後、練習を続けていたときに、「誰かに聞いてもらう機会があるといいよね」とメンバーで話していたら、老人ホームで慰問演奏というお話があったので、始めたのが最初でした。
 老人ホームで演奏する曲目はいろいろな要素で決めているのですが、選定には非常に気を使っています。一番重要なのは、みんなの演奏技術の身の丈に合った曲であることです。われわれのレパートリーは50曲ほどありますが、その中でも上手に弾ける曲もあれば、練習しても微妙な曲もあります。どうしてもうまくいかないときは、その曲の出番はどんどん少なくなってしまいます。
 最初はホーム入居者の年齢を考慮し、古い曲の方が喜ばれるだろうと考えて演奏していましたが、最近は戦前の歌は知らないと言われる方が増え、「君といつまでも」「昴」など昭和後期や平成の唄が喜ばれています。他にもシーズンに合わせて曲を選んだり、水害の直後には川にまつわる曲を避けたり、「千の風になって」のような歌詞のものは避けるといった配慮もしています。
 また「真珠とりの唄」のように、元々はオペラの曲だったものをタンゴ調にアレンジしてヒットした曲など、リズムのいい曲もよく演奏します。お年を召した方は体の動きが自由ではないことも多いですが、懐メロやリズムのいい曲には体を揺らしながら楽しんでくださる方も多くいらっしゃいます。その他の曲でも、最初はどこを向いているか分からなかった方も、歌ったり聞いたりしているうちにだんだんわれわれの方をしっかり見るようになったり、手拍子するようになったり、明らかに意識が上向いてくるという実感があります。そういった反応を見ると、やはり音楽を聴くことで元気になるのだなと、われわれにとっても励みになっています。
 高齢者の方に歌っていただくのが本当の目的なのですが、この活動はわれわれ自身のためにもなっています。まず、遠くなってきた目で楽譜を追い掛け、メンバーの奏でる音を聞きながら指を早く動かすことは老化防止に役立っています。それから、50年前には同窓生でしたが、その後は全く異なる道を歩んできた10人が心を合わせてワンチームとして合奏するので、精神的な老化防止にもなっています。
 近いうちにわれわれも居住者側になって、聞いたり歌ったりすることになるでしょう。しかしそれまでの間は演奏者側に座って、皆さまに楽しんでいただき、元気を差し上げ、そしてわれわれもそのパワーを頂戴していけたらと思いながら活動を続けています。もしもこの地域の老人ホームからご要請がありましたら

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「聴竹居 藤井厚二の木造モダニズム建築─人と地域を未来へつなぐ─」

1月23日卓話要旨
一般社団法人聴竹居倶楽部 代表理事 松隈 章 氏
(児玉 正孝会員紹介)
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 国の重要文化財に指定されている「聴竹居(ちょうちくきょ)」という建物は、建築家藤井厚二の自邸として建てられました。藤井は1888年に福山で生まれ、東京帝国大学を出た後に竹中工務店に入り、竹中工務店設計部の基礎を築いた人物です。6年で竹中を辞めた後、欧米視察に9カ月間出掛け、京都帝国大学建築学科の教授になりました。その後、自身五つ目の住居となる聴竹居を1928年に建てたのですが、その10年後49歳で、病気で亡くなりました。
 藤井は、自らが確立した環境工学を生かし、真に日本の気候風土に適合した住宅を実現しようとした建築家の一人です。日本では欧米に負けないように近代国家の様式を取り入れるため、明治期から洋館を取り入れていましたが、暮らしにくいからと和館も建て、和館と洋館をくっつけた和洋折衷の建物がよく造られました。それが藤井の目には、欧米の模倣と日本の伝統がただ雑然と混交している状態に映ったのです。藤井の代表的著作である環境工学の理論書を『日本の住宅』では、和風と洋風を10項目について比較しています。
 「気候」という項目では、日本の夏は好適な温度と隔たりがあるため、日本の住宅は夏季における設備の研究を主眼としなければならないと考え、直射日光による外気の熱を屋内に伝達させてはいけない、通風を良くしなければならないということを導き出しています。
 「設備」の項目では、間取りや壁、屋根、窓、鉄筋コンクリート住宅について触れています。間取りについては、欧米のような高気密のものは良くなく、換気が大事であると説いています。我が国伝来の住宅では、ふすまや障子で囲われて一つの部屋になり得る形にして風通しを良くしてきたので、それを生かさなければならないと書いています。壁については、実験で性能を確かめた上で、土蔵壁が最も断熱性に優れているのでこれを使うべきだと結論付けています。屋根については、排水だけでなく屋内の気候を調整するために重要だと書いていますし、窓については、雨戸は不要だが、紙障子を通したぼんやりとした明かりが日本人の心に合うので、紙障子が大事だと書いています。それから、鉄筋コンクリート住宅については、藤井は関東大震災の後、コンクリートが大事だとして幾つか取り組んだのですが、当時は調湿性や遮音性に問題があって採用には否定的見解を示しています。「夏の設備」の項目では、やはり換気や通風を利用した室内環境の維持について詳述しています。その内容を四つ目の自邸で実験し、五つ目の自邸「聴竹居」で改良した上で適用しています。「趣味」という項目では、「住宅は単純に雨風を防いだり耐火・耐震するだけでなく、住人に慰安を与えて愉快なものにしなければいけない」と説いています。さらに、自然に反抗してはならないと説き、今でいう景観についても触れています。
 藤井の行いを振り返ると、日本の気候風土や自然環境を環境工学から解明し、設計に活用して日本の住宅に残し、さらに聴竹居で実現しました。和洋折衷ではなく、洋と和を統合した進化を行い、日本住宅を近代的なものに変えようとしたのです。
 私は阪神・淡路大震災をきっかけに、聴竹居の保存活動をするようになりました。震災で半壊してしまった、明治を代表する建築家武田五一の「芝川邸」の移築をきっかけに藤井を知ったのです。芝川邸同様、貴重な住宅である聴竹居の保存の一環として、竹中工務店有志で実測調査を行い、実測図集も発行しました。しかし当時は無指定の個人邸でしかありませんでした。
 知られるようになったのはNHKの「美の壺」で取り上げられたのがきっかけでした。放送は2010年でしたが2013年のスペシャル版をご覧になった当時の天皇、皇后両陛下が興味を持たれ、その年の6月に行幸啓が実現しました。無指定の個人邸の行幸啓は恐らく唯一でしょう。聴竹居にとって非常に運命的なことでした。
 聴竹居は、2000年に住人が亡くなられて以降、2008~2016年は私が個人的に借りて、近隣住人のボランティアによる聴竹居倶楽部という任意団体が公開していましたが、2016年末以降は竹中工務店が所有し、一般社団に格上げした聴竹居倶楽部が公開を続けています。国重文に指定された今、年間1万人強の人たちが各地から訪れていますので、皆さまもぜひ現地に来ていただけたらと思います。

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「地区委員会活動報告」

1月16日卓話要旨
 地区補助金委員会委員長 浜田 章男会員

  新年早々にロータリー財団のお話で眠くなる方は、後半の寄付のお願いの時だけは起きて聞いて下さいね。
 ロータリー財団の活動は、ポリオ根絶・ロータリー平和フェローシップ・補助金の3つです。「財団のシステムはややこしい」とおっしゃらないで、この3つだけだと覚えて下さい。年間の寄付総額は約4億ドルです。世界の120万人が協力するとこのような大きな金額となります。支出総額は約3億ドル。全体の92%が活動とその運営費に使われていますので、十分評価できると思います。
米国の慈善団体の格付けを行う機関のチャリティナビゲーターから12年連続で4つ星評価を受けていますので、寄付金が効果的に活用されているとお墨付きをもらっていると云えます。ウエブサイトで会計報告を閲覧できて隠さないオープンな運営となっています。 
ポリオはいわゆる小児麻痺で、幼い時に感染すると大人になっても意欲が出ないなど弊害があり、感染の連鎖を断ち切ることが必要です。ロータリーは1985年からポリオの根絶を目指し18億ドル以上の資金を投入してきました。2018年には3ヶ国33人だけになり、もう少しですが、ワクチン投与を怠ればまた流行してしまいます。そもそもこの活動を財団の事業とさせたのは日本人、東京麹町RCの山田 彝(ツネ)さんと峰 英二さんでした。命を懸けて献身された偉大な先輩の存在をいつまでも記憶にとどめておきたいものです。当地区の目標は一人30ドルですのでご協力をお願いします。 
ロータリー平和フェローシップは、世界平和と開発の担い手となる人材を育てるための奨学金制度です。センターは世界の6ヶ所、日本はICU国際基督教大学にあります。毎年10名が来日して修士号取得を目指します。写真は当地区がカウンセラーを担当している4名です。10年間で世界で1200人を輩出してきました。 多くは国連や世界銀行などの国際機関や草の根のNGOで活躍しています。彼らのような志の高い人を大事にしたいと思います。地区の推薦事例として素食例会を提案しています。例会食を軽食にして浮いたお金をフェローシップ基金へ寄付するというものです。いかがでしょうか。 
地区補助金は既に66クラブに活用されてきました。会員が財団に寄付したものが原資で、3年前の半分を使うことができます。地区補助金とグローバル補助金の2種類ありまして、奨学金の人選は地区委員会で行っていますので、各クラブには人道的なプロジェクトの計画を進めていただきたいところです。
グローバル補助金は、日本のクラブが途上国のクラブを支援するケースが多く見受けられますが、先方にまかせきりの、いわゆる便乗でないように注意が必要です。地区補助金は、支援基準や留意点をよく認識されて申請をお願いします。あくまでも財団の使命に沿ったもの。また、ふさわしくない事例に抵触しないように注意をお願いします。他団体の活動に安易に乗っかるのではなく、ロータリークラブとして独自の活動をどのようにするのかを考えていただきたいです。
(今年度の推薦候補の説明;中略)
当地区では会員から一人230ドルを4つの種類に指定いただくようにお願いをしていますので、ご理解の上、どうか宜しくお願いいたします。ちなみに神田RCは会費の請求と一緒に180ドルをいただいているところです。日本のロータリーの寄付は、まず公益財団法人ロータリー日本財団に入り、そこから米国本部へ送られるので、個人・法人とも寄付金には税制上の優遇が受けられます。

 

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「伊能忠敬の人物像について」

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11月21日卓話要旨
伊能忠敬記念館 主幹 紺野 浩幸 氏
(久保田 忠義会員紹介)
 
 日本で初めて実測で日本地図を作ったことで知られる伊能忠敬は、17歳で婿養子として佐原の名門伊能家に入りましたが、元々の出身は佐原ではなく九十九里でした。50歳ぐらいまで家業と村のために尽くし、本格的に測量を学ぶようになったのは50歳を過ぎてからでした。浅草の天文台で5年間、天体観測を主体に学び、自ら買い求めた測量器具と培った技術で、全国測量に出掛けました。日本地図を作るために測量を始めたのではなく、地球の大きさを測るという大きなテーマがあり、江戸から北海道までを測ることを目標にしていたのです。
 10回にわたって測量したのですが、1818年、地図完成半ばにして亡くなりました。日本全国を測量して作られた地図はそれまで伊能図しかなかったので、1883(明治16)年に正四位が贈られました。科学技術の面での功績を認められて位をもらったわけです。
 次に忠敬の人物像について述べますが、ここでいう人物像とは歴史的に位置付けたものです。実直で勤勉だったとか、1948年に佐原で開催された忠敬の没130年祭の趣意書にある「自分の頭で考える人」といった評価は歴史的に位置付けた人物像ではありません。
 歴史的に位置付けた人物像としては、小島一仁氏が1978年に出した『伊能忠敬』(三省堂)という本の中で、ヨーロッパの科学的精神を身に付けた人物というものがあります。特に、忠敬の体得した新しい学問の精神は、西洋の科学的精神、あるいは近代科学の精神と呼んでも差し支えないものであると述べています。それに対し、川尻信夫氏は『幕末におけるヨーロッパ学術受容の一断面』(東海大学出版会、1982年)という著書の中で、忠敬の技術は中国を経由して日本にやってきたものであり、忠敬は洋学者とはいえないと言っています。お二人とも伊能忠敬記念館を開館するときの委員になっていただいたのですが、捉え方はかなり異なります。
 しかし、忠敬にはオリジナルの著作がほとんどなく、忠敬の本質を探ることは非常に難しいことです。唯一の著作である『仏国歴象編斥妄』は、僧侶の円釈通が書いた『仏国暦象編』という蘭学批判の書をさらに反駁した本です。ヨーロッパのいろいろな技術は、元々はインド起源だとする荒唐無稽な議論に忠敬が反論しています。しかし忠敬は、西洋の優位は当然認めながらも、西洋の学術の根幹となる天文学全体に対してはほとんど興味を示していないことから、忠敬は体系的に洋学を学んだわけではないのです。つまり、小島氏の説は成りたたないのです。
一方、尾藤正英氏は『日本歴史講座』(河出書房、1952年)の中で、平賀源内には、西洋学術に盲従し、権威主義に陥った人々とは異なり、本当の意味での科学的精神があると書いています。では、忠敬はどうかと見直すと、師匠の高橋至時との違いが分かる資料があります。至時が同門の間重富に宛てた手紙の中で、「『西洋の数値は端数が出ないのはおかしい。ヨーロッパの学問は大したことがない』と言っている忠敬をたしなめた」と書いてあります。しかし、忠敬は納得しませんでした。忠敬は自分の技術だけを信用するところがあるのです。その点で、尾藤氏が言っているような、平賀によく似た人物と位置付けられるのではないかと思います。
 忠敬とよく似た人に、間重新という人がいます。先ほどの間重富の息子です。重新は天体観測を丹念に行った人です。渡辺敏夫氏は『天文暦学史上における間重富とその一家』(山口書店、1943年)という本の中で、「西洋の学説がいかほど優れようと、いたずらに彼説に従うものにあらず」と言っています。つまり、西洋の学術をそのまま受け入れたのではなく、疑いながら受け入れた人たちがいたのです。こうした人たちもまた、忠敬に並ぶような人たちだろうと思います。
 蘭学・洋学者の受容類型としては、西洋の学術を拒絶したタイプには、『仏国暦象編』を書いた釈円通がいます。全面的に受け入れたタイプには、司馬江漢や高橋至時が入ると考えられます。そして、懐疑的に受け入れたタイプの中には、忠敬や源内、重新が入ってくるのではないでしょうか。忠敬は、一面的に西洋学術に対して信奉したわけでもなく、自分の技術や自信をもって、西洋の学術以上のものを生み出そうとした人物として位置付けられるのではないかと思います。

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2020年1月14日 (火)

「親子はねやすめ 活動報告」

11月7日卓話要旨
宮地 浩太会員(NPO法人親子はねやすめ代表理事)

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日頃よりお世話になっております。卓話のお時間を頂戴いたしました。親子はねやすめ一同、改めて御礼申し上げる次第です。卓話の時間では、映像が主となりましたが、その中で東北の活動について、そして10月開催社会奉仕委員長金井会員も参加くださいました昭和記念公園での家族揃ってのバーベキュー大会、今一度この週報にてご報告申し上げます。
先ずは、東北の活動について。2017年、FMラジオ局J-WAVEより親子はねやすめの活動についてインタビューの申し入れがあり、有難くお受けいたしました。その放送を聞いて下さいました市民社会創造ファンドより武田製薬のプログラムにエントリーすることを奨められ活動の資金を2年間にわたり得ることができました。東北での活動を願っていた私たちにとってたいへん幸運な機会に恵まれました。しかし、活動のきっかけをどう付けたら良いのか模索しながらスタート。ファンドの紹介で尋ねたNPO団体からは、「東京の法人が何を言っているのか、何が解るのか、東北の人間はそんな活動に耳を傾け協力する人間などいない。」と強くお説教を受けながらも口説くこと90分。残念ながら結局何も得られぬままに仙台から引き揚げたのが活動の始まりでした。帰り道の新幹線で飲んだビールが苦いこと、苦いこと。その中で、いつも神田RCのみなさまをはじめ多くのみなさまにご支援頂いたお陰で生み出された家族の笑顔と神田RCで得た東北支援活動の経験がなによりも私の支えであることは言うまでもありません。新幹線の中で絶対に活動を根付かせる、東北の家族の笑顔がたくさん生まれるまで活動を続けると心に決めたのが昨日のように今も思えています。
この約2年間の東北の活動で、学生を含む様々なボランティアさんが募ってくれるようになりました。先月11月には河北新報社のインタビュー記事も掲載いただきました。仙台WEB情報「machico」にも東北へ向けての活動に対するアンケート(多くの声援を頂きました)や活動取材掲載も頂きました。まだまだ活動と出会ったご家族は少ないのですが、東北のご家族の笑顔も生み出すことができ、イベント開催にはいつも参加頂ける家族も出てきました。まさにこれから、そんなムードが団体に湧き上がってきています。これも普段応援頂いている神田RCのみなさまのお陰です。
ありがとうございます。引続きご声援お願いをいたします。
続いて昭和記念公園で実施いたしましたデイトリップ、家族そろってお出かけ企画のバーベキュー大会。お招きしましたのは、杉並区在住の障がいのあるお子さんのいるご家族13組。ご家族は、親御さんがとても若いのが特徴でした。子育てに悩みのない親御さんはそう多くはないと思いますが、社会からの理解が感じられない、逆に社会の理解不足の中での生活は、顔にその不安を感じずにはいられません。若い世代の家族が、躍動感をもって希望と勇気が生み出せる社会であることを願いながら実施いたしました。
現在、都内の一部でようやく医療的ケアのあるお子さんが親御さんの同伴無しで小学校へ通えるようトライが始まりました。それが当たり前の社会になってくれることを祈っています。一方で、やはりここ10年で2倍に増えている医療的ケアの必要なお子さんたち、特に0~6才のお子さんのいるご家族には、お子さんとその家族に対する社会の理解、そして実際に相対する一般の方々と共に過ごす時間と会話は不可欠だと考えています。家族を孤立・疲弊させてはいけない。世の中で一番小さな社会を構成する家族が、その時代の中で力強く生き抜いていくためには、時間とともに人と人との関係性の膨らみが絶対的に必要だと、ご家族と接しながら強く感じるところです。私の神田RCで得ることのできる温かさを対象となるご家族へ向けて少しでも実践を通じて届けていきます。
最後にバーベキューに参加頂きました金井社会奉仕委員長に御礼申し上げます。ありがとうございました。神田RCのみなさまに日頃からの感謝を込めて

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2019年12月 3日 (火)

「お金の話アレコレ―キャッシュレス化は進むか?―」

10月24日卓話要旨
(株)東京きらぼしフィナンシャルグループ 代表取締役社長 

味岡 桂三 氏    (水藤 有仁会員紹介)
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 日本では年間どれくらいの現金が流通しているかというと、約110兆円です。わが国のGDPの約2割に相当します。世界有数の現金比率が高い国であることが日本の特徴です。なぜ現金志向が高いかというと、治安が良く、現金を持ち歩いても安全だからです。また、冠婚葬祭のときやお年玉は現金でなければならないという文化があること、日本銀行が現金のクリーン度を一定レベル維持しており、現金自体がクリーンで信頼があること、さらには全国に自動販売機やATMなど現金を使いやすいインフラが整備されていることが挙げられます。
 しかし、世界ではキャッシュレスが進んでいます。代表的なのはクレジットカードや交通系のプリペイドカードです。また、給与や取引で銀行インフラを使うこともキャッシュレスに含まれます。最近では、QRコードを使ったキャッシュレスサービスも進んでいます。日本政府は2027年までに、キャッシュレス決済比率を現在の2倍に引き上げる目標を掲げました。
 しかし、海外ではさらにキャッシュレスが進んでいます。例えば中国では、QRコードによるスマホ決済が進んでいます。特に内陸部では銀行支店がなかったり、銀行口座を持っていない人が多かったりして、銀行サービスに対する長年の不満がありました。その中でスマホが普及し、QRコードが発明され、それが結び付く形で普及したわけです。さらに、eコマースが顧客を取り込んだことで、一気に膨らんだことも影響しています。
 実は、キャッシュレス比率が世界で特に高いのは韓国です。韓国では特に、クレジットカードが普及しています。これは、韓国政府がクレジットカードを使った分、所得控除をするなどの政策を取ったためです。
 ケニアでもキャッシュレスが進んでいます。ケニアは中国以上に銀行の数が少なく、現金をトラックで運んでいました。同時に携帯電話が普及したことにより、電話番号を銀行口座のように使って送金するシステムを作りました。インフラが整っていないが故に、キャッシュレスが進むという見方もできるかもしれません。
 北欧諸国でもキャッシュレスが進んでいます。国土が広く、現金デリバリーのコストが大変だったため、キャッシュレスが進んだといわれています。スウェーデンでは、中央銀行がデジタルの紙幣を発行することも検討されているようです。実際に私が北欧に行ったときも、ノルウェーの有料公衆トイレやデンマークの券売機はキャッシュレスとなっていました。一方、現金が使えず、クレジットカードで処理するにも少し時間がかかって不便なところもあると感じました。
 実は、現金にもキャッシュレスにもそれぞれデメリットが存在します。現金は製造や物流、レジ締めや小銭の用意などでコストや事務負担が発生します。そして、強盗や窃盗などの犯罪リスクもあります。それから、現金は直前に誰が使っていたのかが分からないという匿名性を利用し、マネーロンダリングに使われる可能性も高くなります。そして、たんす預金もされがちであり、脱税につながる恐れもあります。
 一方、キャッシュレスにもデメリットがあります。例えば、クレジットカードは一定の信用度がないと発行されないため、アメリカなどでは現金を受け取らない店も出てきて、所得の少ない人が利用できなくなるなど、デジタルデバイド(格差)が問題となっています。また、窃盗などが起きない代わりに、コンピューターウイルスやアカウント乗っ取り、偽QRコードによる振り込め詐欺など、新たな犯罪も出てきています。そして、購入履歴情報などが分かってしまうというプライバシー問題もあります。災害などの停電でスマホのバッテリーが切れれば使えなくなりますし、キャッシュレスだと無駄遣いをしやすくなるのではないかという不安もあるでしょう。
 しかし今後、日本もキャッシュレスが進んでいくことは間違いありません。ただ、中国などのように一気に進むにはしばらく時間がかかるでしょう。なぜなら、既にさまざまなクレジットカードやプリペイドカードが普及し、スマホ決済のQRコードも統一されておらず、利用者がどこでも使える環境には至っていないからです。一方、現金を使いやすいインフラは整備されたままで、現金の信頼も高い状態です。ですから、これから協調と競争が行われながらキャッシュレスは進みつつ、現金もそこそこ残るでしょう。

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2019年11月12日 (火)

「児童養護施設18歳の巣立ち─すべてに意味があり、みんな大事な存在」

10月31日卓話要旨

 NPO法人プラネットカナール理事長 鈴木 邦明氏                                    
 ACHAプロジェクト         山本 昌子氏
(金井 一成会員紹介)

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私は生後4か月から2歳までを乳児院、2歳から18歳までを児童養護施設、18歳から19歳までを自立援助ホームで育ちました。育児放棄で、あと何時間か遅くなっていたら死んでいたという段階で保護されたそうです。

私の児童養護施設の生活は「幸せ」という言葉に尽きます。傍にいてくれた人達の笑顔、夜寝る前の絵本の時間、みんなで騒がしく囲む食卓。職員の方たちは、いつでも真剣に考え向き合ってくれました。血の繋がりはなくても本当の家族だと感じられました。

それが、卒園を機に一変します。保育専門学校受験をして合格したのですが、学費を出してくれるはずの父がNOと言ってきたので、合格はキャンセルして自立援助ホームに住むことになりました。朝から夜まで必死に働き続ける日々、バイトの行きと帰りは毎日泣きながら、1年間で100万円を貯めて夜間の保育専門学校に入学しました。しかし、同世代の子供達がやりたい事をしていても我慢して頑張ってきたのに、入学金を払っただけでそのお金が一瞬で消えてなくなってしまい、とてもショックでした。普通の親御さんとのような生活は私にはどんなに望んでも手に入らなかったのです。そして、押し寄せる孤独感、施設での自分が全てだったのに「自分には帰る場所がどこにもない」

自分の過去に会いに自分の子どもの頃を知っている人を訪ね、そこで、私の今までの人生には沢山の愛があったと気づき、「すべてに意味があり、

みんな大事な存在」ということに気づいたのです。

また、専門学校のあちゃさんという先輩が、後撮り撮影という形で振袖を着せてくださったことが、児童養護施設出身の子達に振袖写真撮影で「生まれてきてくれてありがとう」を伝えるACHAプロジェクトにつながりました。現在プロジェクトの活動は4年目になり、これまでに約100名の撮影を行いました。
最後になりますが、プラネットカナールの活動により
多くの児童養護施設出身者の若者たちの生活が潤い助けられています。児童養護施設出身者にとって支援があることは当たり前ではなく、奇跡のようなことです。皆さんどうか引き続き応援団でいて下さい。よろしくお願い致します。

【活動報告】
NPO法人プラネットカナール
理事長  鈴木 邦明 氏

私たちは現在16施設を支援しており、お蔭様で、今年13施設35名の卒園生の希望者全員に主要な家電を贈ることができ、それ以外にも274アイテムを贈呈しました。贈呈式は、不安な中、嬉しそうな卒園生たちの微笑みで溢れていました。応援している人たちが沢山いるということが力になっていると確信しています。引き続きご支援、宜しくお願いいたします。

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「米山月間に因んで」

10月3日卓話要旨
「米山月間に因んで」
米山奨学生 田 勝圭さん
(髙柳 憲嗣会員紹介)
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 卓話の前に、簡単な自己紹介をさせて頂きます。私は今年27歳で、出身はソウル生まれ、ソウル育ちのジョン・スンギュといいます。2012年から2014年まで兵役に就いた後、2017年4月に明治大学に入学し、今年4月に米山奨学生に選ばれました。今日の卓話に関しては予め取り組んでおり、二つの理由に従ってテーマを決めました。まず、米山記念奨学会の理念に基づいているためです。そして、私自身が外国人として客観的に比較できる素材であるからです。異文化理解について語る前に、歴史の事例を鑑みていきましょう。結論から言うと、異文化理解の誤りは、大きな結果をもたらします。例えば、豊臣秀吉による朝鮮出兵では、小西行長ら率いる日本軍は朝鮮半島に上陸してわずか1週間で朝鮮中央部の漢陽(ハンヤン、現在のソウル)を占領しました。日本軍の快進撃を前に朝鮮政府は、「小西軍の食糧は1カ月分しかないから、1カ月間取り囲めば勝てる」と判断していたのです。しかし1カ月後、朝鮮軍は敗北しました。これは日本軍の食糧の量を読み間違えたからではありません。敗因は、当時の韓国人の食事量が、現代の韓国人の2倍、当時の日本人の3倍にも上ったからです。つまり、朝鮮政府が1カ月分しかないと判断していた食糧は、実際は日本軍にとって3カ月分もあったのです。もしも当時の朝鮮軍が日本文化をきちんと理解していれば、結果は変わっていたでしょう。
さて本題ではありますが、真の異文化理解とは何でしょう。まず、異文化理解とは、複数の文化があるということを前提に、自分の文化とは異なる文化を理解して解釈しようと努力することをいいます。それゆえに、文化相対主義の観点、言い換えれば、他者への理解と容認する態度が必要になります。ただ、注意しておきたいのは、全てを認めてしまうと倫理的な問題が発生してしまうことです。アフリカでは死体を食べると死者の魂が自分の体に宿ると信じられています。或いは、女性や児童への虐待、身体棄損などの風習や文化を持つ地域もあります。そのため、全てを容認するのではなく、部分的な相対主義観点が求められます。
 最後に、異文化理解に関する私の経験を取り上げさせて頂きます。元々私は、日本と韓国をつなぐ懸け橋になりたいという目標を設定し、留学を決めました。とはいえ、私は日本に来て多くの試行錯誤を経験してきました。日本に来た当初、私自身は馴染めない外国人、頑固な韓国人という色眼鏡で見られていると感じていました。一方、外国人だから差別されていたのではなく、私自身の勘違いのせいだったと言わざるを得ません。そのような経験を含め、幾つか指摘されたことがありました。最初は早口に注意することでした。自分ではそのつもりはありませんでしたが、早口だという指摘をよく受け、指摘は話し方だけでなく、話法にもポイントがありました。例えば喫茶店での支払いで、以前おごってもらったから今度は自分が払おうと思って「俺が出すからいいよ」と言った時、後日友人から「なぜ怒っているのだろうと思った。」という素直なフィードバックも頂きました。加えて日本社会での相手の話を聞いて察する文化が韓国と真逆だと感じました。まずは相手の話を聞いて、反論する前にもう一度相手の立場で考えるのです。韓国でも相手の言い分を察しないわけではありませんが、納得できないところがあれば、直接相手に言います。アルバイト先の先輩に「こっちの方が効率的ではないですか」と話すと、「日本人はまず相手の話を聞き、それを聞いた上で相手の立場で考える。それが日本社会だ。」と言われました。それから、語彙と表現の使い方とニュアンス的理解を深めることも大事だと考えざるを得ませんでした。例として、私は韓国が早急に経済発展してきたことを「まぶしい経済成長」という言い方をしましたが、日本では「輝かしい経済成長」という表現が正しいのです。このニュアンスの違いが、私には非常に難しいのです。対策として新聞を読んだり友人に聞いたりして、語彙力を磨いています。
 以上のように、話し方や話法、察する能力、語彙やニュアンスへの理解を身に付ける努力を積み重ねても、日本人と触れ合う経験がなければ意味がありません。私の留学はまだ2年に過ぎませんが、実際に異文化理解を実践していけば、日本と韓国だけでなく、世界各国どこでも理解し合うことができると確信しました。したがって、これからも異文化理解をより深め、切磋琢磨していきたいと思っています。

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「明治東京の西郷隆盛~その実像と生活」

9月26日卓話要旨
歴史研究家 伊東 成郎 氏
(角田 実会員紹介)
西郷隆盛は明治4年(1871年)の夏ごろから、日本橋の小網町と蛎殻町をまたぐ広い敷地に住み、「小網町の西郷さん」と呼ばれていました。西郷は4月に鹿児島から上京し、新政府の重鎮になりましたが、2年後の明治6年10月、征韓論を巡る対立で辞職し、鹿児島へ帰ります。それまでの間、人形町の水天宮近くで暮らしていたのです。
 下男の永田熊吉の証言によると、西郷の屋敷は米穀取引所から第五国立銀行の一帯で2633坪ありました。そのすぐそばで谷崎潤一郎が明治19年に生まれています。西郷家では、厄介な洗濯物は老舗の白木屋(1662年創業の呉服店)にお願いしました。また、当時は新橋演舞場辺りにあった精養軒の洋食が好きで、取り寄せていました。精養軒は上野に移転しましたが、ここで西郷の銅像と一緒になったのは全くの偶然です。西郷像は高村光雲の作で、当人の決断によって戦禍を免れた東京を高台から見渡せるよう、彰義隊との上野戦争にちなんだ上野の山に明治31年建てられました。大好きなお店の近くに本人の銅像が永久に建っているわけです。大隈重信の家に仕えた使用人の回想によると、西郷は人形町から現在の皇居まで毎日歩いて通っていました。くつわの紋(薩摩の紋)が付いた薄色の着物を着て、小倉(厚めの木綿)の袴をはき、大小を差して、草履を履いていました。熊吉がいつも白木の弁当箱を持ってお供をしていたそうです。
 西郷には多くのエピソードがあります。妻の糸の証言によると、西郷は塩辛いものが好きでした。肥満体にとっては大敵です。糸はハラハラしながら西郷の食生活を見ていたかもしれません。ウナギも大好きでした。西郷の孫で法務大臣まで務めた吉之助によると、蒲焼き屋でウナギを注文すると、口に合わなかったらしく、犬に食べさせ、代金を煙草盆の下に入れて帰っていったそうです。今の感覚ではもったいない話ですが、それも西郷の愛情表現だったのかもしれません。素直にお金を払えばいいのにそうしないところも西郷の美徳だったのでしょう。
 西郷はとても立派な体格でした。吉之助の回想によると、身長は5尺9寸(177cm)、体重は29貫(116kg)でした。明治4年に西郷を自宅に招いた土佐の砂糖問屋店主の記録によれば、長袖のシャツを着ると袖の根元が腕の途中でつっかえてしまったそうです。
 東京で暮らしていた頃、西郷はよく狩猟に出掛けました。というのも、肥満で塩分も取り過ぎの西郷は、脳卒中の危険を自覚していました。それを案じた明治天皇はドイツ人医師を使わします。西郷は健康指導を受けて、渋谷にあった弟・従道の別宅に一時移り、野外運動として大好きなウサギ狩りをしていたのです。弟の屋敷は現在の渋谷駅前の金王八幡宮辺りにあり、西郷は数カ月、渋谷や青山で連日のように狩りをしていました。明治32年に渋谷で生まれた私の祖母が「道玄坂でキツネの親子を見た」と言っていたことが思い出されます。西郷は翌年、鹿児島に帰り、ウサギ狩りの趣味は一層深くなりました。
 また、西郷が犬好きだったことは有名です。吉之助の話では、西郷は何の欲もない人でしたが、犬に対する欲だけはすこぶる強かったそうです。祇園の芸妓の話では、西郷は新撰組などを警戒する幕末の京都の宴会にも犬を連れてきたそうです。そして、小網町の屋敷にも犬を5~6匹飼い、あだ名も付けてかわいがっていたようです。
 熊吉は、隆盛の死から25年後の明治35年に亡くなりました。従道は現在の代官山に屋敷を構え、ここに晩年の熊吉を家族ともども住まわせ、最期をみとりました。亡くなると盛大な葬儀を挙行し、参列者に向かって「私のもう一人の兄が亡くなりました」と涙を流してあいさつしたそうです。
 西郷から1年にわたって生活の援助を受けていたのが、坂本龍馬の未亡人、お龍でした。お龍は美人でしたが、とっつきが悪く、龍馬の死後、仲間から遠ざけられて辛酸をなめました。幕末にお龍と龍馬は西郷に大変世話になり、鹿児島の温泉に新婚旅行に行ったときは西郷が全般をサポートしました。そのような大恩人を今度は東京で頼ったのです。しかし、1年余りで西郷との別れが訪れます。明治32年の報知新聞によると、2人が決別したのは鎧橋上だったそうです。西郷は写真嫌いだったので写真は残っていませんが、お龍もそんな西郷に誓って、自分も生涯、写真は撮るまいと決めたそうです。本や雑誌などで、若いときのお龍とされる写真は別人と見ていいでしょう。

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