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2008年8月28日 (木)

企業経営からオーケストラ経営への転身

08724_007 財団法人日本フィルハーモニー交響楽団 専務理事 平井 俊邦氏

 私はこれ迄に、銀行、エンジニアリング会社再建、情報通信産業、日本フィルハーモニーと働く場所が変り、ジョブジプシーと自称するほど、多くのことを経験させてもらいました。特に銀行時代にMIT留学と香港赴任を経験したことで、経営に対する軸を学んだように思います。1980年代前半、第2次石油危機の対応が遅れたアメリカ経済に対し、MITのレスター・サロー教授は、「パックス・ブリタニカの時代、英国人は誰一人、英国が衰退するとは考えていなかったろう。パックス・アメリカーナの現在、米国人は誰一人、米国が衰えるとは考えていないだろう。しかし生産性を見よ、日本が米国の3倍の生産性をあげている。パックス・アメリカーナが永久であることはない。」と警鐘をならしました。その後、アメリカは日本経営を研究し、IT産業の興隆に全力をあげて、経済を再興させました。同時期の日本の失われた10年と比較するとどうでしょうか。サブプライム問題により再び訪れた苦悩の中でアメリカの自己改革の力がどう発揮されていくのか、大いに注目しているところです。
 プラントエンジアリング会社の立て直しでは、兵站が伸び切ると経営危機に陥るという事、技術優位性のない企業は市場から退場を宣言されるという事を学びました。プロジェクト管理がしっかり行われない経営は、受注合戦の末、大きな赤字プロジェクトをかかえ、それが経営の破綻につながってしまいます。最終的にこの会社は私的更生により再生したわけですが、それを可能にしたのは、この会社が持っていた高い技術力でした。LNGとエチレンについて世界屈指の工事技術を持っていたのです。私はここで、技術優位性のある会社は市場で生かされ、優位性のない会社は退場の憂き目にあう事を強く認識させられました。
 企業経営をしてきた私が全く畑違いのオーケストラの経営に携わるようになったのは、このプラントエンジニアリング会社を再建させた経験を生かしてほしいとの要請があり、もしこれまでの経験が行かせるならばお役に立ってみようと考え、アドバイザーを経て専務理事就任を受けたという次第です。日本には現在23、うち東京には8つのオーケストラがあります。強力なスポンサーを持つN響など幾つかを除くと、財政事情はどこも非常に厳しい状況です。日本フィルの場合、150回のオーケストラ公演に室内楽公演をあわせると、年間公演回数は250回にもなります。しかし収支は赤字、団員の平均年収は45歳で数百万円以下というのですから、本当に驚いてしまいます。経済成長による恩恵を受けて、企業に働く人の生活は相当良くなったと思っていましたが、ひとたび文化の世界に入ると、信じられないような話がいっぱい出てくるのです。「われわれはどこかで文化を置いてきてしまったのではないか。」今、強くそう感じています。
 日本フィルの収益構造を見ますと、基礎収入(演奏料、入場料、物品の販売料)から基礎支出(楽団員給料や指揮者・ソリスト料、会場費、旅費等)を差し引くと数億円の赤字になります。個人や法人からの寄付、冠コンサート・協賛という形でのご支援、国からの補助を加えて収支を均衡させています。日本のオーケストラを絶滅危惧種と呼んだ方がいます。音楽を欲する多くの人々の要請に応えられなければ滅んでしまうということでしょう。又、技術力優位性のない企業が消えていくのと同じように、演奏力が劣り、魅力に欠ける楽団は淘汰されることになるでしょう。
 私は音楽の世界では素人ですが、企業人としての経験から、経営主体の明確化を訴えたり、「音楽を通して文化を発信する」を新しい目標に掲げるなど、さまざまな提案を行っています。聴衆にもスポンサーにも喜んでもらえる企画作りをすることも必要だと考えています。高い演奏水準の追求は勿論ですが、一方で「目線を下げる」ということも必要です。既に文楽や歌舞伎ではそういった努力が行われていますが、クラシック音楽の世界ではまだまだであると私は思っています。
 音楽というのは素晴らしくて、演奏を聴いていると、涙が出たり、鳥肌が立つことがあります。私は違う世界からやってきた人間として、これまでとは違う形でこれらのことを訴えていきたいと考えています。ロータリークラブの皆様は、既にさまざまな角度から社会に貢献しておられて素晴らしいと思いますが、可能であれば、「音楽を通して文化を発信する」日本フィルハーモニー交響楽団へもぜひ積極的なご支援をいただき、それを通じてクラシック音楽業界の興隆にお力をいただけましたら幸いに存じます。

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2008年8月20日 (水)

脱カーボン経済への前進

2008724_001_2元環境大臣・全国地球温暖化防止活動推進センター代表 大木 浩氏

 日本で環境への関心が高まり、環境庁ができたのは1971年のことです。地球の温暖化については、科学者たちの間では1960年代ぐらいから言われていましたが、世界中の政治家が集まって、温暖化について話し合いをするようになったのは、1992年にリオデジャネイロで開催された世界環境会議以降のことです。このとき、地球温暖化防止のための国際条約として、「気候変動に関する枠組み条約」が作られました。この枠組み条約に基づいて、毎年会議(COP)が開かれているわけですが、1回目にベルリンで開かれた会議で議長を務めたのが、現在ドイツの首相であるメルケルさんでした。原子力物理学が専門という彼女は、温暖化についての知識が豊富で、今でも熱心にこの問題に取り組んでいます。
 産業革命以来、化石燃料を大量に消費してきたことで、地球周辺の大気にはCO2等の温室効果ガスが蓄積してしまいました。地球の温暖化を科学的に研究している国際機構のIPCCは、「地球温暖化の原因は人間の活動であり、このまま放置すれば大変なことになる」と報告しています。一方でCO2の排出を抑えながら、もう一方で森林等にもっとCO2を吸収させることで、大気中に蓄積するCO2を減らすというのが、地球温暖化防止の基本です。
 1997年に京都で開催されたCOP3では、京都議定書が全会一致で採択されました。これは、今年から適応が始まり、2012年までの5年間でEUが8%、アメリカが7%、日本が6%のCO2を削減することになっています。ただし、アメリカは政府としては採択したものの、国会が批准していないために、京都議定書には参加していないという状況です。また、義務として合意したのは先進国だけで、中国やインドなどの途上国は数値的には義務を負っていません。ちなみに京都議定書でいう先進国は38カ国で、これには欧米諸国や日本のほか、市場経済に移行中のロシアや東欧の旧共産圏の国々が含まれています。
 京都議定書には細目が未確定の部分が多々あり、排出権取引の制度もその一つです。これにより、自国の技術を用いて他国の排出量を減らした場合、それを自国の削減分としてカウントしてもよいとなっていますが、日本を含めて、具体的にどこまでこれを使うかということは、まだ決まっていません。
 さて、昨年インドネシアで開かれたCOP13では、2013年以降の枠組みについて話し合われました。いろいろな考え方がありますが、最も平等な方法として、一人当たりのCO2排出量を調べて、それに応じてCO2を抑える努力をしてもらうというものがあります。あるいは長期的目標として、化石燃料を使わない「脱カーボン社会」を目指そうとも言われています。地球の気温は、過去1万年ほどは安定していましたが、この200年で一気に上昇しました。そのため、北極の氷がどんどん解けていますが、氷の部分が減ってダークブルーの海の部分が増えると、太陽の光をより吸収しやすくなるので温暖化は加速します。
 CO2等を今すぐ減らすことはできませんが、少なくともこれから先の世界経済を考えた場合、化石燃料を中心的な地位から外して、他のエネルギーを考えていかなければなりません。例えば太陽エネルギー、風力、あるいは波を使ったエネルギー、海水の温度差を使ったエネルギー等、さまざまなものがあります。今までのように、石炭や石油をたいて電気を作るのではなく、このようなエネルギーにいかに早く移行できるかが、温暖化防止のポイントではないかと考えています。
 そうは言いながら、現実問題としてはなかなか難しいものですが、EUは既にそれに向かって動き出しています。27も国がある中で、彼らは「地球温暖化は、自分たちの努力で止めるのだ」という強い意志を持って、2020年までにCO2を20%削減すると決めています。また、アメリカも新しい政権ができれば、今までとは違った体制になり、きちんと対策を講じてくるでしょう。そうなると、日本は非常に苦しくなるわけですが、これは今後の外交上の施策とも大きくかかわってくる問題です。日本の場合は、何といっても温暖化防止の必要性を国民の皆さんに分かるように説明するという努力が不十分です。今後は私どもも政府と協力して、ねじを巻き直していきたいと思いますので、どうか皆様も、地球温暖化防止への取り組みにご参加いただきますように、お願い申し上げます。

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イニシエーションスピーチ

200873_003 200873_002_3 会員 藤井 城君

 宇都宮さんのご推薦で1月に入会し、半年が過ぎました。昭和40年生まれの最年少会員ということもあり、毎回身の引き締まる思いで例会等に出席しています。
 私は本来体育系の人間で、中学のときにブルース・リーにあこがれて習い始めた少林寺拳法で、高校のときには全国大会で3位になりました。ちょうど卒業の年に国際武道大学が開設され、1期生として入学しました。卒業後はほとんど運動らしいことはしていないので、最近は最年少会員とは思えないほど、すっかりメタボの仲間入りです。大学卒業後は株式会社ヤナセに就職し、3年ほどメルセデスベンツの販売を担当していましたが、突然秘書室に転属になり、梁瀬次郎オーナー兼会長の秘書になりました。最初は「ボディーガードかな」と思っていましたが、前任者が胃がんになって半年後に43歳で亡くなったためだと聞き、戦慄を覚えたものです。秘書として7年間働き、その後退社するまでの間、政財界の重鎮の方をはじめ、さまざまな著名な方とお会いする機会に恵まれ、良い勉強をさせていただいたと思っています。
 さて、私ども博善は、明治34年創業の葬儀社です。日本では古くから火葬が行われており、江戸のころからは寺の境内で宗教的に行われていましたが、明治維新後、衛生上の問題等から、一部の火葬場は寺院の手を離れて営利事業へ移行していきました。当時火葬業は卑しい者が携わる仕事とされていましたが、創始者木村荘平は、それを大衆啓蒙していく決意で、事業経営の上にも、「死者の追善を唱えて、善(ぜん)を博(ひろ)める」という尊い理念を掲げました。関東大震災後、大正14年に開かれた総会で、宗教的精神に重点を置くことが決まってからは、宗教者たる僧侶に執務を任せることになりました。そこで、宇都宮さんのご尊父である日蓮宗大本山法華経寺貫主・宇都宮日綱上人が社長に就任され、日蓮宗堀之内妙法寺を代表して、私の祖父藤井教詮が監査役として入りました。ちなみに現在、博善という名前が付く会社は、私が調べただけで全国に37社ありますが、いずれも私どもと資本関係はありません。
 このところ葬儀社は、病院との癒着問題や料金体系が不明瞭だということ等で、マスコミや消費者センターからパッシングされています。その一方で、葬儀自体は家族葬や密葬が増えており、小型化の傾向にあります。それに比例して、飲食や返礼品などの付帯売り上げも減少していて、頭の痛いところですが、この流れを止めるのは現状としては難しいでしょう。
 私どもは、葬儀の正しい知識と、故人のご遺志やご遺族のご要望を満たしていく技術サービスを提供しています。家族葬や密葬の場合、故人の社会とのつながりや、故人にお別れをしたかった人たちの気持ちを抜きに葬儀を考えてよいのかという疑問が残り、最後にお別れができなかった方々の心情を察すると、胸が痛みます。実際に、お葬式の後に亡くなられたことを知った方がご自宅にいらっしゃり、「お別れがしたかった」と言われるのを聞いて、後悔されたご遺族がおられるのも事実です。一般的な葬儀では、会葬者への対応に追われて、故人とゆっくりお別れができないという短所がありますが、故人と生前交流のあった人たちとのお別れの場を設定し、亡くなったことを対外的に知らせることも、社会的なけじめとしては重要です。
 お葬式は、哀惜・感謝などの思いを故人に伝え、来世の安楽を願う送る側の自然な感情に基づいて行われます。同時に、お葬式ではさまざまな作法やしきたりを覚えなければなりませんが、それによって送る側に大きな癒しが生まれるという効果もあります。葬儀の必要性を感じておられない方には、ぜひその辺りのことも考えていただきたいと思います。
 私どもは、家族葬を望まれる方に対してヒアリングを十分行い、長所と短所、一般的な葬儀との相違点を詳しくご説明しています。最近は晩年を生き抜くための経済的負担が大きいためか、家族葬どころか火葬のみの仕事も増えています。人生最後の社会儀礼として、故人をしのんで故人を敬う場を作るお手伝いをさせていただくという意味では、まさにロータリーの社会奉仕の精神にふさわしい職業かもしれないと思っているところです。今後ロータリーの活動ともども日々精練邁進していきたいと思っていますので、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます。

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浮世絵からみた江戸時代

200873_002 株式会社伊場仙 代表取締役 吉田 誠男氏

 私どもは1590年の創業以来、和紙を商ってきました。現在は日本橋に店を構えていますが、もともとは三河の商人で、家康に伴われて江戸に出てきました。江戸の町づくりが始まったころは、まだ豊臣側の勢力が残っており、それらの人たちを排除するために、家康は三河地方から武士や商人を連れてきたのです。彼らは皆、日本橋近辺に店を構えたので、当時日本橋辺りに駿河屋や三河屋など、遠江にゆかりのある屋号が多いのは、そのような背景にあるからだと思われます。
 当時江戸では、連日埋め立て工事が行われていたため、人口は男性が7割を占め、殺伐とした雰囲気でした。そんな中で情報誌、春画、かわら版、ゴシップ誌が出回るようになり、浮世絵が誕生したわけですが、私どもは、それらに使う和紙を供給していました。
 浮世絵の制作では、まず版元がブーム等を見ながら企画を立てて、それを得意とする絵師を選びます。絵師は指定された場所に行き、デッサンを描きますが、色を付けるのは版元です。そして、絵は版木を彫る彫り師の手に渡り、その後刷り師によって刷られたものが版元に持ち込まれて売られるというわけです。絵の中で使われる着物の柄は、ほとんど商店が宣伝のために提供しており、そういう点は今のファッション誌と同じです。このように、1枚の浮世絵は通常4人の職人たちの手を経て完成していました。
 徳川政権における版元の役割ですが、版元の多くは幕府から商権を与えられた御用商人でした。御用商人は商権を得る見返りに地元の普請をさせられていて、私どもの場合は矢作川にかかる橋が流されたら、必ず再築費用を請求されました。ちょうど今の法人税のようなものですが、もっと過酷だったようです。
 また、幕府は世論を操作するために版元をうまく利用していました。例えば水野忠邦の失脚は、通説では、水野忠邦の天保の改革を批判すべく、私どもが風刺画「源頼光土蜘蛛妖怪の図」を出版したことになっていますが、本当はこれを作るように命じたのは幕府だったのです。天保の改革で失敗した忠邦の失脚を演出するため、忠邦と対立する立場にあった水戸派の人たちが、私どもに命じて作らせたものでした。そして、彼らの目論見どおり、半年もすると江戸市中に天保の改革が失敗であることが浸透し、それを見た徳川家慶が忠邦を切ったというわけです。この辺りは、今の政治家にも真似していただきたいほど、見事だと思います。
 同様に、皆様よくご存じの忠臣蔵も、幕府の世論操作の跡がうかがえます。47人のうち17人が半蔵門周辺に潜伏していたそうですが、あの辺りは御三家以外は住めませんから、それだけでも幕府の関与が疑われます。また、討ち入りの後、浅野家は再興、大石家は加増されたのに対して、吉良家の長男は深手を負った身で流刑され、寒さの厳しい諏訪で亡くなっています。このように、幕府が浮世絵等を使って世論を扇動し、政治を行ったことをにおわせる事実は、ほかにもたくさんあります。
 ところで、現在NHKの大河ドラマ「篤姫」では、ペリーが来航したところですが、ペリーがわざわざ艦隊を引き連れて日本に来て開国を迫った理由は、私ども商人の視線で見ると実によく分かります。ポイントは「日米修好通商条約」の第5条にある「アメリカから持ってきた通貨は、国内で定められたレートで日本の通貨に交換すべし」という一文です。実は、当時グローバルな金銀交換レートは1対13でしたが、日本国内のレートは金1に対して銀5でした。すなわち、日本に銀を持ち込み、1対5で金に替え、それをアメリカに持ち帰って銀に替えると、1対13のレートで換金できるため、莫大な富が得られたのです。アメリカはここに目を付けたのでしょう。なぜ私どもがそれに気付いたかというと、江戸では1850年以降、市場から貨幣がどんどんなくなっていたからです。ちなみにアメリカは、1854年に天保一分銀3枚に相当する、メキシコドルという訳の分からない銀貨をわざわざ作っています。もちろん他にも目的はあったかもしれませんし、もしかするとペリー自身、自分が日本にやってきた本当の理由は知らなかったかもしれません。ただ、ペリーの来航以来江戸の町から金銀が出て行き、人々はデフレに悩まされたという記録があるのは事実です。いずれにせよ、アメリカは昔から「濡れ手に粟」のようなお金もうけが上手であったということです。

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