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2008年10月24日 (金)

職業奉仕月間に因んで

10月9日卓話要旨
地区職業奉仕室室長 石鍋 元章氏

08109_013   10月は職業奉仕月間ということで、RIらしい職業奉仕の目的が発表されました。RIは、会員の事業所の見学会、職業活動表彰(優良な警察官に対する表彰やボランティア活動に対する表彰)、職業相談(青少年への職業情報職業相談)、職業指導(中小企業の人材育成)、ボランティア活動の推進等クラブで行う活動を挙げていますが、日本のロータリーでは、会員一人一人の心のありようとしてとらえているので、RIが言っていることには少々違和感を感じています。
 さて、そもそもなぜ職業奉仕が生まれたかということですが、ポール・ハリスが1905年に親睦団体としてロータリークラブを作ったことはご存じのとおりです。このとき、設立の目的として、親睦のほかに互恵取引がありました。互恵取引とは会員同士で行う取引のことですが、ロータリークラブの会員になれば利益が得られるということで、会員は爆発的に増えました。
 弁護士のドナルド・カーターがポール・ハリスに入会を勧められたとき、ロータリーには規約が二つしかありませんでした。第一条は互恵取引に関する条項で、第二条は社交クラブとして親睦に必要な条項でしたが、カーターがそれだけでは不十分であることを指摘したことで、第三条が加わりました。それが奉仕の最初の概念であったわけです。
 創立から2年後、会長になったポール・ハリスは会員増強とともに、他の都市でロータリークラブを立ち上げることに尽力しました。そしてさらに、世のため人のために尽くす道を開こうとしましたが、当時の会員の大半は互恵取引を目的に入っていたので、シカゴクラブは親睦互恵派と奉仕を旨とする派に分かれてしまったのです。
 そんな中で新たに入会してきたシェルドンによって、職業奉仕は大きく発展していきます。1910年に全米の1500人のロータリアンが初めてシカゴに集いましたが、そのとき職業倫理委員会が発足し、シェルドンは委員長に就任します。彼は就任演説で、「仲間内のために奉仕する者が、最も多く報われる」というモットーを提案しますが、仲間内という言葉は限定的であるため、その後除かれました。彼はまた、「サービスこそが、企業の永続的な発展と成功を保証する唯一の方法である」「ロータリアンの企業が、職業奉仕の理念に基づいて正しい事業経営を行い、事業の継続的発展を実証すれば、業界全体の職業倫理は高揚する」と述べ、多くの人がこれに共鳴しました。そして翌年開催された第2回全米ロータリークラブ連合大会において、「最も奉仕する者、最も多く報われる」という彼の言葉は、第一ターゲットとして承認されたのです。
 その後、シェルドンが言う職業奉仕なるものの考え方が確立してくるに従って、それまで盛んに行われていた互恵取引は次第になくなり、ロータリアンとして品位のある職業奉仕が求められる時代に入っていきました。1927年になってようやく四大奉仕が確立されて、RIによって職業奉仕という言葉が定義付けられますが、そこではイギリス風にvocation(天職)が使われていました。一方、シェルドンはvocationは使わず、アメリカ流にoccupation(職業)やprofitという言葉を使っていたのですが、ヨーロッパの人たちから「profitという言葉は、おのれの利益をイメージするのでふさわしくない」という声が強くなったために、それまで第二ターゲットであった「超我の奉仕」が第一ターゲットになり、シェルドンのターゲットは格下げされてしまいます。
 以後、RIの中で職業奉仕は蚊帳の外に置かれてしまい、それは1987年にRIが職業奉仕委員会を復活させるまで続きました。40年ぶりに復活した職業奉仕には、クラブにおける活動として工場見学等が含まれていましたが、私は本来職業奉仕は一人一人の職業に対する倫理観を問うものなので、ロータリアンが個人で行うべきであると考えています。クラブとしては、職業奉仕の真髄を啓発していくことが最も重要であるというのが、私の考えです。
 昨今、残念なことに、日本では企業経営者の倫理観が非常に薄れてきていますが、佐藤千壽さんがおっしゃるには、職業奉仕は売り手よし、買い手よし、世間よしだから、これら三つを覚えておけばよいとのことですので、あまり難しく考えずに当たり前のことをやっていこうと考えているところです。

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2008年10月16日 (木)

米山月間に因んで

10月2日卓話要旨

Small08102_011 神田RC米山委員長                  
池原郁夫君
 皆様には、日ごろから米山奨学金にご協力いただき、ありがとうございます。今回、米山委員会では、米山月間にちなみ、優秀な奨学生の方にそれぞれのクラブを訪問していただき、日本語でスピーチをしていただく企画を立てました。本日お話しいただくボナヴィタ・エマニュエル君は、フランスのストラスブール大学出身で、ジャーナリストを目指す若者です。現在は、法政大学大学院政治学科で学んでおられます。

Small08102_007_2 米山奨学生        

ボナヴィタ・エマニュエル君
 私が育ったストラスブールは、フランスのアルザス地方にある町です。ここは1872年にビスマルクに負けて以来、第一次世界大戦まではドイツ領になっていました。その後、一度フランス領に戻りますが、第二次世界大戦でドイツが負けるまで再びドイツ領となり、大戦終了後フランス領に戻るという歴史を持つ地域です。そのため、フランス人でありながら、外の人間であるという感覚を持ち、自らをアルザス人と呼んでいます。日本は県ごとに特徴はありますが、決して敵対するのではなく、それらの違いを楽しんでおられるようです。そのような関係は、私には新鮮に映りました。
 私は今、政治学の勉強をしていますが、日本で言う政治学は諸外国とは少し違っているようです。すなわち、日本では法律や経済が必修科目になることが少なく、むしろ哲学や思想に近いような感じです。日本は政治学の概念を外国から輸入していますが、その際、哲学者や思想家の影響を受けたためにそのようになったようです。フランスでも、10年ほど前からノーマリゼーションが盛んになり、政治学の分野で思想家の言葉が引用されるようになっています。
 1990年代以来、日本では公共サービスを民間に委託する動きが強まってきましたが、そういう意味では、経営学も政治学の一分野として考えるようになってきたのかもしれません。私が尊敬する、公共政策の専門家であるジョセフ・スティグリッツも、経営・金融・法律・経済を合わせて研究しています。
 政治学が持つもう一つ大切な側面として、デモや抗議活動や反対運動などの社会運動がありますが、今の日本の社会運動は、それぞれの運動が個別に行われているために力が分散し、とてももったいない状態です。しかし、日本でも68年の全共闘のときには、「連帯を求めて孤立を恐れず」というスローガンがありました。これは、「自分は連帯を求めるが、連帯がないときも孤立を恐れてはならない」ということで、正に社会運動の根本にある考え方です。政治に興味を持ち、社会運動に参加することで、将来的に今後の社会に影響を与えることができるはずですから、今の若者にも、ぜひこの概念について考えてもらいたいと思います。
 私は、おかげさまで皆様から奨学金を頂くようになりましたが、それ以外にもロータリークラブを通じて得るものはたくさんありました。特にロータリークラブに来ることで、さまざまなお立場・ご職業の皆様とお会いするようになり、今ではそれらの出会いは私の財産になっています。ロータリークラブの存在がなければ、私の生活は「たこつぼ化」していて、全く奥行きのないものになっていたことでしょう。ここで得た貴重な経験を無駄にすることなく、今後自分の国に帰る、あるいは他の国に行ったとしても、決して人生を「たこつぼ化」させることのないように、心掛けて生きていこうと思っています。

Small08102_009 地区米山副委員長            
伊藤 隆氏
 米山の活動に携わっている者にとっては、寄付を集めることは一つの大きな目標ですが、今回私どもは、奨学生の方々に直接会員の皆様に語りかけていただくことで、その目標を達成できないかと考えました。優秀な学生たちを直にご覧になれば、事業への理解が深まり、「寄付してもいいかな」と思う方が増えるのではと期待したわけです。
 全国的に寄付の額を見ると、最も多いのは2650地区(京都)で、次が2590地区(横浜)です。2580地区は5位か6位ぐらいです。奨学生による卓話が、この先どのくらい効果があるか分かりませんが、次年度からは本格的にスタートしたいと思っています。皆様にはぜひ活動の趣旨をご理解いただき、さらなるご寄付を賜りますようお願い申し上げます。

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日本とギニア共和国の文化の違い

9月25日卓話要旨

08925_2 元ギニア共和国駐日大使 ギニア日本交流協会顧問 オスマン ユーラ サンコン氏

  ギニアはアフリカ大陸の西部、大西洋に面した国です。国土は本州と同じぐらいで、そこに1000万人が暮らしています。学制は日本と同じ6・3・3・4制で中学までが義務教育ですが、学校の数が少ないので、みんなが学校に行けるわけではありません。しかも、通学では10~20km歩くのは当たり前という感じです。皆さんは、アフリカではどこでもライオンやキリンが見られると思っておられるかもしれませんが、私が初めてライオンを見たのは、日本で富士サファリパークに行ったときです。あまりにも感激したので、写真を撮ってギニアの友人に送ったほどです。
 現在アフリカには53の国がありますが、1869年のベルリン会議で、ヨーロッパの国々が、勝手に分割して、国境を直線で仕切った結果、一つの国にさまざまな民族が存在しています。ギニアはフランス領でしたから、今でも小学校ではフランス語を教えています。
 私が初めて日本に来たのは昭和47年12月です。当時ギニアは日本に大使館をつくっていませんでしたが、「優れた工業国である日本は、将来的にギニアにとって大切な国になるだろう」ということで、大使館を新設することになったのです。ギニアは地下資源に恵まれ、鉄鉱石の産出量はオーストラリアに次いで世界2位ですし、ボーキサイト、アルミナのほか、今話題のレアメタルもたくさん採れます。
 日本については何も知らずに来ましたが、羽田空港に着いたときには、あまりの寒さに驚きました。気候もさることながら、ギニアと日本では文化や生活環境が著しく違いますが、それはイスラム教によるところも大きいようです。イスラム教では、あんなにおいしい豚肉を食べてはいけないと言っていますし、ラマダンのときは4週間にわたって朝5時から午後6時まで断食をしなければなりません。しかも1日5回もお祈りをするのですから、大変です。また、イスラム教は一夫多妻制を認めており、男性は妻を4人まで持つことができます。私自身も父に奥さんが3人いて、私は22人兄弟の12番目として育ちました。ちなみに父は非常に厳しい人で、私たちは父から、「分かち合うこと、譲り合うこと、許し合うこと、感謝の気持ちを持つこと」を教えられました。また、「自分でバルカ(善行)を探しなさい」ということもよく言われましたが、これは「親が生きている間、善行を積み重ねていれば、親がいなくなったとき、貯金と同じように、いつか自分のために使うことができる」ということでした。
 また、日本人とギニア人では、体のつくりが随分違います。来日当時、私の視力が7.0だったことは有名な話ですが、これは電気がなかったので、夜に星を数えて遊んでいたからだと思われます。歯も丈夫で、私の母は83歳で亡くなりましたが、歯は全部元気でしたし、私も来年還暦を迎えますが、虫歯は1本もありません。ギニアでは、果物以外に甘いものを口にする機会がないので、虫歯にならないのでしょう。しかし、医療という点では遅れており、アフリカでは46%の子供たちが5歳までに亡くなっています。
 私は息子たちに、「大和」と「武蔵」という名前を付けるほど、日本が好きです。特に古くから日本人が受け継いでいる義理人情が大好きで、来日してからずっと下町を選んで住んでいます。私の師匠である浅香光代さんから、「昔、下町では家に鍵をかけていなかった」と聞き、「ギニアと一緒だな」とうれしく思ったものです。しかし、多くの人たちが外国に目を向けるようになった結果、日本は変わってきたようです。これはとてももったいないことなので、私は日本の皆さんには、まずご自分の国が持つ文化や歴史の宝物を認めていただきたいと思います。外国の文化ややり方に興味を抱くのはそれからでも遅くないのではないでしょうか。
 最近は、アフリカにも中国や韓国の製品が出回るようになりましたが、ギニアの車は75%が日本製ですし、ギニアに持って帰るお土産で最も喜ばれるのは、秋葉原で買った日本製品です。それだけ日本の製品・日本人は信用されているのですから、今回のアメリカ経済の混乱を受けて、次は日本が世界経済に革命をもたらしてくれるのではないかと、私はひそかに期待しています。麻生新総理は、キャッチフレーズとして「明るい日本」とおっしゃっていましたが、私も日本に明るさが戻ってくることを切に願っています。

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身近な環境問題とオゾンの有用性

9月18日卓話要旨

Small08918_001 ㈱ジェイ・シー・アール環境指導室次長 

宮田 真二氏

 株式会社IHI(石川島播磨重工業株式会社)は船を造る会社として1853年に作られました。この年はペリーが来航した年で、黒船の出現に驚いた幕府が、水戸藩に命じて同様の船を造らせたのが始まりでした。最近では世の中の変化に対応するべく、今は造船以外に600の分野で研究開発を進めています。例えば、宇宙開発を行い、H2ロケット等を作っています。
 昭和の時代まで、日本では「水と空気と安全はただ」と言われてきましたが、今やミネラルウォーターの市場は1500億円規模ですし、安全もただで保障される時代ではなくなっています。また、空気も公害対策に掛けているコストを考えると、既に無料ではありません。
 環境問題では、二酸化炭素の削減が盛んに
言われていますが、二酸化炭素は地球上を覆うように膜を作って、太陽によって温められた空気を閉じ込めてくれます。もし二酸化炭素が全くなければ、地球上の平均気温15℃は-18℃になり、生物は生存できなくなるでしょう。逆に、二酸化炭素が増えすぎると、北極の氷が解けて水没する島があったり、マラリアやデング熱といった熱帯の病気が日本で流行するおそれもあるため、二酸化炭素の削減に懸命に取り組んでいるわけです。
 地上15km~30kmには、厚さ0.01mmのオゾンが幾重にも重なり、層が出来ています。オゾンは空気に強い紫外線が当たってでき、太陽から降り注ぐ悪い紫外線をカットして、われわれがやけどや皮膚がんになるのを防いでくれています。オゾンの最大の特徴は、除菌と脱臭を同時にできる点にあり、東京都の水道水などは、塩素を使っていたときにはとても飲みずらいものでしたが、オゾンガスを使うようになってからは、都庁などで、東京の水として500ml・100円で売れるほどになりました。さらにオゾンを水に溶けこましたオゾン水は食材の洗浄でも使われており、除菌、脱臭のほか、農薬も分解してくれるということで、今、中国でオゾン水を使った野菜洗浄機が飛ぶように売れています。医療の分野では、末梢細胞が壊死しそうな糖尿病患者さんの場合、血液を浄化することで、足の一部の切断を免れることができます。
 昔から結核の療養地としては、紫外線の強い清里や舘山といった所が選ばれていました。紫外線が強い所では自然にオゾンが発生し、そのオゾンを吸うことで結核菌の活動を抑え込むわけです。また、オゾンは放電によってもできます。雷が発生するとオゾンができます。同時に酸素と窒素が分けられ、窒素は水蒸気に溶け込んで雨となって降り注ぎ、天然の肥料として土壌にしみ込みます。農家には昔から「雷の多い年は豊作だ」という言葉がありますが、それは正に「風が吹けば」式のこのような状況があったからです。また、分煙のためにオゾンの装置を使っておられる事業所も増えています。たばこの煙は、オゾンガスに触れると数秒で分解、脱臭されるので、ホテルや各種施設で活躍しています。
 これほど有益なオゾンですが、非常に酸化力が強いため、濃い濃度のものを長時間吸い込むと、のどや食道や肺に影響が出ることがあります。ある一定の距離を取りながら使えば、良い環境が実現できるため、石川島では距離を置く 
ことをテーマに掲げて装置を開発してきました。
 オゾン層自体は、非常に脆いものです。そのオゾン層に穴が開いたオゾンホールは、1982年に日本の南極観測隊によって発見されました。原因は、皆様もご存じのとおりフロンガスだと言われています。これは非常に有益なガスなので、さまざまな所で使われていましたが、今は冷蔵庫やエアコンを中心に使われています。恐ろしいのは、オゾンホールを作ったフロンガスは、15年~20年前に放出されたもので、フロンガス全体の10%にすぎず、80%に相当するフロンガスは、現在上昇している最中だという事です。フロンガスは空気より重いため、ゆっくり上昇するのです。このフロンガスの処理を誤ると、15年、20年後に私たちの子供や孫の代に禍根を残すことになり、何とか処理法を考えるために、現在群馬大学をはじめ、いろいろな所が処理や利用法について研究しています。
 「21世紀は水と空気の時代」と言われています。環境問題では、自分ができることから実行することが大切です。

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地球温暖化と私たちの暮らし

9月11日卓話要旨

08911_001 前気象庁地球環境・海洋部長・NPO法人気象環境教育センター 大西 晴夫氏


最近は地球温暖化が話題を呼んでいます。この100年間で日本だけで見ると気温は1.06℃上昇しており、0.74℃という世界平均を大幅に上回っています。最高気温が35℃を超える日が多くなったことから、「猛暑日」と言う言葉ができたほどですが、温暖化の特徴は、最高気温が上がるというより、暖かい冬が増え、最低気温が上昇することにあります。気温の変化だけでなく、雨の降り方も変わってきました。少し前までは、1時間に100mmを記録することはほとんどありませんでしたが、最近は珍しくなくなりました。
地球に入ってくる太陽光線のうち、3割はすぐに出て行き、7割は吸収されますが、太陽からもらった光と同量の赤外線を宇宙空間に放出しているため、長い目で見ると極端に暑くなったり寒くなったりすることはありません。最近、すっかり悪者扱い扱いされている二酸化炭素などの温室効果ガスは、宇宙に出て行こうとする赤外線をつかまえて、地面に戻す大切な働きをしてくれています。その結果、地球の平均気温は-18℃となるべきところを、温室効果ガスのおかげで15℃に保たれているのです。問題は、温室効果ガスがもう少し増えてきたらどうなるかということです。二酸化炭素の場合、炭素原子の両側に酸素がくっついていて、そこに赤外線が当たると、2個の酸素原子が決まった周期で振動したりねじれたりします。その振動数が赤外線の振動数と一致して共鳴を起こし、二酸化炭素がブルブル震えることで、温度が上がるのです。
昔から二酸化炭素の濃度を測っている三陸海岸の綾里での数値を見ると、右肩上がりで増加しているのが分かります。現在、毎日の天気予報は「数値予報モデル」で行っています。これは物理学の式をスーパーコンピュータで計算して将来を予測するものです。100年後の天候の予想も、同じ手法で行います。関東地方の冬といった時間的・空間的に大雑把なものであれば、それなりに予測可能と思われます。ゴア元副大統領と共にノーベル平和賞を受賞したIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が昨年出した報告書の将来予測では、日本から東大の気候システム研究センターが作ったモデルと、気象庁の気象研究所作ったモデルの予測結果が採用されました。その中では、各国が経済成長を重視して好き勝手な成長を目指す場合のほか、温暖化抑止の技術を活用しながら持続可能な成長はしていくといういくつかのシナリオに基づく予測が行われました。新聞等で報道された「6.4℃の上昇」は、その中で最も派手な数値で、平均的には2~3℃の上昇と予測されています。二酸化炭素の濃度を今のままの水準に抑えたとしても、多少の昇温は避けられないようです。従って、二酸化炭素の排出量を減らす努力も必要ですが、気温が上がってきたときの適応策について、しっかり考えていく必要があるのではないでしょうか。
また、気温だけでなく、雨の降り方も大きく変わります。非常に雨が降る地域と、ますます乾燥が進む地域に二極化されるようです。台風の状況も大きく変わり、日本の場合、発生数は減るけれど、できた台風は強いものになるとの研究もあります。
中には、「昨日と今日で10℃ほど違うこともあるので、2~3℃上昇しても大丈夫。かえって北海道でおいしい米が作れるようになるだろうから、よいのではないか」とお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが、人の場合でも体温が2~3℃上がるだけで入院騒動になることがあります。地球も人間の体も非常に複雑にできていますから、数度の違いが大きな問題の原因となることがあるのです。「今年の夏は暑かった」とわれわれが感じても、ほとんどの場合は夏の間の15日くらいが暑かっただけで、年間で見れば0.2~0.3℃程度の上昇に納まってしまうのです。このことからも、年に1℃の上昇が相当大きなものであることをお分かりいただきたいと思います。
二酸化炭素の排出量では、1位アメリカ、2位中国となっていますが、1人当たりで見ると1位はアメリカ、2位は石油に恵まれた国ブルネイで、中国・インドはまだ少ないことが分かります。問題は、人口の多い中国・インドの二酸化炭素排出量が増えてきたときにどうなるかということです。今後は個人のレベルから国のレベルまで、温暖化にどう対処するかを重要な問題として考えていく必要があります。

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江戸城大奥を語る

9月4日卓話要旨

Small0894_012 東京都江戸東京博物館館長 竹内 誠氏

 本日はNHK大河ドラマ「篤姫」のドラマの進行に合わせて、篤姫と和宮のお話をさせていただきます。
 篤姫は徳川家の系図では天保6年12月19日に島津忠剛の娘として生まれ、一子と命名されました。忠剛は第9代薩摩藩主島津斉宣の子として生まれましたが、本家を出て今和泉家の養子となり、家督を継ぎました。
 和宮は、仁孝天皇の子として弘化3年5月10日に生まれましたが、公には弘化2年12月11日生まれになっています。その年の1月に仁孝天皇が亡くなったため、当時の風習に従って実父が存命中に生まれたことにしたわけですが、実は弘化3年は丙午で、「丙午に生まれた女性は不幸をもたらす」という迷信があったために、半年ずらしたというのが本当の理由のようです。和宮は1851年に有栖川宮熾仁親王と婚約しますが、後に将軍家へ降嫁するので、この婚約は破棄されます。
 篤姫は1853年に島津斉彬の実子となり、さらには近衛家の養女となって、1856年に13代将軍徳川家定の正室となります。これはドラマにあるように、次の将軍に一橋慶喜を推していた斉彬の策でしたが、小松帯刀との接点については、ドラマと違って現実には存在しません。家定については、本当に暗愚であったという説と、そうではないという説がありますが、実際のところは分かっていません。
 その家定が、結婚して2年後に亡くなったため、篤姫は髪を落として天璋院と称しました。次の将軍は、井伊大老によって、一橋慶喜ではなく紀州藩主の徳川慶福に決まり、14代将軍家茂が誕生しましたが、世の中の混乱は収まることなく続き、ついに1860年3月に井伊大老は桜田門外の変によって命を落とします。
 井伊大老は生前家臣に命じて、和宮について調べていますが、それによると和宮は色が白くて華奢で、非常に美しい人だったようです。報告書には、そんなに美しい人が、将軍家に降嫁してくださった理由について、「丙午生まれであったから」と記されています。降嫁に際しては、2万5000人が25日かけて中山道を進みましたが、沿道の諸藩や村は莫大な出費を強いられたようで、当時の苦労話が今でも伝えられているほどです。和宮に対して篤姫は、ドラマでは大変美しく描かれていますが、実際にはがっちりした体型で「女丈夫」「気が強くて男勝り」といった言葉で表現されています。実は、家定は一条家と鷹司家から正室を迎えていましたが、いずれのお姫様も病気で早世されたため、3人目の正室に篤姫が選ばれたのは「今度は体の丈夫な人を」ということがあったようです。
 また、家茂と和宮は共に17歳で結婚し、とても仲が良かったと言われていますが、家茂が21歳の若さで亡くなり、和宮は一人取り残されてしまいます。京都から帰るように言われましたが、静寛院宮となった和宮は、徳川家の人間として江戸にとどまる決心をします。
 その後、15代将軍に就いた慶喜は、非常に頭の良い人でしたが、こらえ性がなかったために、あっという間に政権を投げ出してしまいました。今、福田総理のことが頭に浮かびましたが、私は福田さんにお会いして、とても誠実な人だと思いました。実は、日本は公文書の扱いが不十分で、日米和親条約の原本はありませんし、日米和親通商条約も火災のために焦げてしまって見る影もない状態なのですが、福田さんは総理就任前から「日本も公文書を大切にしなければ」とおっしゃっていました。営林局の閉鎖に伴い、処分される運命にある国有林に関する資料を保存する私共の活動もご存じで、総理になってすぐに国立公文書館の館長に電話をしてくださいました。その結果、国有林関係の資料はすべて国立公文書館に集められることになり、処分を逃れたのです。しかし、徳川慶喜も含めて、良い人が必ずしも政治家として成功するわけではないということなのかもしれません。
 さて、和宮と篤姫はいろいろな意味で対立する場面もあったようですが、徳川幕府滅亡という段階まで来ると、徳川家の存続と江戸城の無血開城に尽力しました。最後の御触れは大奥から出され、二人はそれぞれ「命をかけて江戸の町と徳川家を守りたい」という手紙を関係各所にあてて書いています。江戸城の無血開城といえば、勝海舟と西郷隆盛と思われていますが、最後の最後に江戸を救ったのは、実は大奥のこの二人だったということです。

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