「人生よもやま話」
4月23日卓話要旨
学校法人共立女子学園学園長・理事長、横綱審議委員会委員 石橋 義夫氏
昭和21年、鳩山一郎は組閣直前に公職を追放されています。かつて鳩山が海外を旅した際に記した中に、「ヒトラーやムッソリーニは、一生懸命に国民を引っ張っている」という一文がありました。それをもって、GHQは国粋主義者として彼を公職から追放したのです。自由主義者とされていた鳩山氏を、突然国粋主義者として扱った背景には、「何としても追放しなければ」という強い思いがあったようです。
鳩山一郎が後継者に選んだのは、吉田茂氏でした。嫌がる吉田氏を無理やり口説いてバトンタッチしたわけですが、サンフランシスコ講和条約締結によって日本が完全に独立国と呼べるようになると、「鳩山に政権を返すべきだ」という世論が強くなりました。「吉田君とのけんかは避けたい」と言う鳩山に対して、強硬派の人たちは「首に縄を付けてでも引っ張っていく」と、昭和26年6月11日、鳩山邸離れで会議をしていた最中に脳溢血で倒れたのです。名医である佐々廉平博士にも診ていただきましたが、左半身不随の体になったわけです。それでも「政権を担当したい」という思いが強く、非常に努力してリハビリに励みました。
当時は、第三次世界大戦勃発かと言われるほど不安定で、鳩山氏も「日本は講和条約締結で東の窓は開かれたが、西はまだである。日本の平和を維持するには西の窓を開けるしかない」という信念を持っていました。鳩山内閣発足後、ソ連大使館のドムニッキー参事官が会いたがっているという情報を得て、私が内々に話を進め、二人は音羽の鳩山邸で会いました。そのとき彼はソ連政府からの手紙を持参しており、これによって本格的な日ソ交渉が始まることになったのです。
そうは言っても、親米家が多い中で話はいっこうに進まず、とうとう鳩山は自身がモスクワに行く決心をしました。昭和31年10月5日に羽田を発つ前に言った「それでは皆さん、さようなら」という言葉から、彼が死を覚悟していたことが分かります。当時はまだプロペラ機しかなく、我々はマニラ、チューリッヒ、ストックホルムと乗り継いでモスクワを目指しました。11の新聞社の記者が随行していましたが、彼らの狙いはただ一つ、「鳩山の身体が大丈夫か」ということだけでした。モスクワ行きはそれほど過酷だったわけです。
無事モスクワに着いた我々は迎賓館に案内され、連日クレムリンに通いました。滞在中はどこに盗聴器が仕掛けられているか分からないので、細心の注意を払っていましたが、それでも情報は漏れていたようです。フルシチョフは「我々は、日ソ交渉をしようと言った初めての首相である鳩山さんとの交渉に全力を挙げる」と言いましたが、肝心の領土問題となると決して譲りません。こちらも国会で四島一括返還を決議しているので譲るわけにはいかず、非常に苦しい交渉が続きました。同行していた河野一郎氏が、お酒も飲めないのにフルシチョフからウオッカを勧められ、「飲めば私の言うことを聞いてくれるか」と言って一気に飲み干す場面があったほどです。河野さんも命懸けで臨んでおられたのです。結局鳩山のもう一つの強い目的であった「領土は何年経ってもなくならないが、人命には限りがある」という、シベリア抑留者の帰還を優先し領土問題は次の平和条約に持ち越すことになり、10月19日に調印式を行うことが決まったのです。しかし前日の夕方になって、「党幹部が旅行でいなくなるので、21日に延期したい」という申し出があったのです。一刻も早く決めて帰国したい我々としては受け容れ難く、19日に党幹部抜きで十ヶ条からなる「日ソ共同宣言」の調印式を行うことになりました。
すべてを終えストックホルム到着後、我々は初めてポーランドで暴動が起こっていることを知りました。党幹部はそれを鎮圧するために動いていたわけですが、「知っていれば、もっと有利に交渉を展開できたのに」と、皆残念に思いました。当時の「鉄のカーテン」は、それほど強力だったのです。その後、ハワイに出迎えに来てくれた、森清・中曽根康弘の両氏を見て、涙を浮かべていた鳩山の姿は、今でも忘れることができません。歴史に残る日ソ共同宣言は、このように鳩山・河野両氏が命懸けで臨んで実現したのです。
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