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2013年5月 8日 (水)

「イニシエーション スピーチ」

4月11日卓話要旨
吉村 健一会員

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私は、昭和40年8月31日、千代田区外神田秋葉原で生を受けました。この年は東京オリンピックの翌年に当たります。千代田区立芳林小学校、千代田区立錬成中学校、都立九段高校を経て、昭和59年4月慶應義塾大学商学部に入学しました。専攻は計量経済と経営分析でした。昭和63年3月に大学を卒業し、野村證券に入社、平成2年に野村證券を退社し、ロック製菓株式会社に入社、平成21年5月、同社の代表取締役に就任し、現在に至ります。
社会人としての第一歩は野村證券で踏み出したわけですが、同社を選んだ理由は、当時、学生として家業を手伝っていた私は、社員と話していて、どうもこの会社は営業力が弱いのでは、と感じたからです。そこで、当時、最強の営業力を誇った野村證券に入れば、家業を継いだときに役立つだろうと考えたわけです。野村證券では三重県四日市支店の営業課に配属されました。最初に指示された仕事は社長の名刺を一週間で100枚集めるというものでした。何をどうした良いか分からず、ひたすら飛び込みで名刺を集めました。それでもなかなか名刺が100枚集まらず、最後は、朝、駅の改札口でそれと思われる人に声をかけて名刺をもらう、という作戦まで決行しましたが、結局、100枚は達成できませんでした。飛び込みで入った先では、玄関先で塩をまかれたり、渡した名刺をその場で破かれたりといった経験もいたしました。野村證券には当初10年は勤める意気込みでおりましたが、当時はバブルの頃で、母親から人手不足で家業の運営が大変だという相談を何度も受けたため、退社し、家業を手伝うことになりました。
ロック製菓は、もともと祖父が昭和3年に創業したチョコレートを主力とする菓子製造販売会社です。私が入社した当時は直営店が駅ビルに5店舗、そしてお客様はキヨスクのような鉄道の売店で、その店頭に置かれているコインチョコレートがメインの商品でした。このコインチョコレートが全国どこの売店でもぶら下がっていることが当社の自慢でした。ちなみにコインチョコレートは弊社の登録商標です。
戦後まもない一時期、チョコレートは高級菓子として大変もてはやされました。作れば作っただけ飛ぶように売れました。当社では、相場ものであるチョコレート原料のカカオ豆を実需以上に大量に買い込み、値が上がったら売却して利益を得た事もあったそうです。しかし、所詮相場ものです。やがて相場は反転し、カカオ豆の価格は急落、当社は実需以上のカカオ豆を大量に抱え込むことになりました。その結果、資金繰りに苦しみ、いつ倒産してもおかしくない状態にまで追い込まれます。そのときに生まれた苦肉の策が、当時、高級菓子とされたチョコレートを廉価で販売するという方法です。それは、銀紙に包まれ、化粧箱に入って高級品として売られているチョコレートを、いわゆるカチ割りの形で販売するというものです。銀紙などは一切無し、お客様の前で裸のチョコレートを計量し、そのまま袋に入れてお渡しします。この安価な販売方法で大量のカカオ豆をさばくことができ、会社は一息つくことができました。この販売手法は会社の窮地を救っただけでなく、生産が間に合わなくなるほどの人気を博し、当時の工場長の話では仕入れ先が現金を片手に工場に列を作るほどだったといいます。ちなみに、当時、カチ割りチョコはぶっかきチョコ、ブロックチョコなどとも呼ばれ、当社はいつのまにか「ぶっかきさん」とか「ブロックさん」などと呼ばれるようになり、やがてブロックの「ブ」が取れて「ロックさん」となり、最終的にはロック製菓という現在の正式社名にまでなりました。
主な売り先をキヨスクや駅ビルの直売店としてきた当社ですが、やがて国鉄がJRに変わり、仕入れの仕組みなども変わったため、当社もキヨスクや駅ビルから撤退することになりました。当社としては、それに変わる新たな売り上げを作る必要にせまられました。その頃、コーヒーチェーンが台頭してきていたので、私は飛び込み営業を繰り返し、何社かとおつきあいが始まりました。現在も某有名コーヒーチェーン店さんのコインチョコレートは、そうしたいきさつで置いていただくようになったものです。
現在では、お客様オリジナルデザインのコインチョコレートの製造にも取り組み、コンサートグッズ、イベントグッズといったお菓子以外の商品を扱うお客様にも幅広くお取り扱いいただいています。

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