« 「気候変動の国際交渉と日本」 | トップページ | 「ガバナー公式訪問」 »

2017年8月31日 (木)

「漱石が上野で聴いたハイカラの会」

7月27日卓話要旨
音楽研究家・音楽プロデュサー 瀧井 敬子 氏
(堀田 康彦会員紹介)

1

  夏目漱石(1867−1916)は小説家という枠を越えた文明批評家 でした。彼の人間哲学は、現代人にとっても多くのことを教えてくれます。欧化主義に狂騒する時代にあって、漱石は東洋と西洋のよいところを取り入れるという「私の個人主義」を貫いた人でした。彼が洋楽に関心を持ったことは、あまり知られていません。きょうは彼の洋楽体験の一端をお話したいと思います。                    
英国留学では、まず軍楽隊の楽器に興味をもっています。ロンドン到着後11日目の明治33年11月9日、彼は「ロンドン市長のお披露目のパレード」、すなわち「ロード・メイヤース・ショー」を見に行っています。中世から続いていたロンドンの大イベントです。ロンドン市長と言っても、大ロンドンの市長ではなく、1年交代に選ばれる、名誉職のシティ・オブ・ロンドンの市長です。新市長は護衛兵つきの金色の馬車に乗って、壮麗な礼服に身を包んだ近衛兵の軍楽隊に先導されて、旧ロンドン市街をパレードします。これは15世紀以来の伝統でした。
漱石は楽器の名前をメモしていました。その手帳は、現在、東北大学に保管されています。     
英国留学から帰国した漱石は、明治36年4月から高襟の白シャツにスーツという、ハイカラな姿で、第一高等学校と東京帝國大学文科大学の教壇に立ちます。一年目は講義ノートを作るのにたいへんだったようですが、翌明治37年になると、寺田寅彦に連れられて、東京音楽学校の奏楽堂コンサートに出かけています。コンサートに出かけるときの服装は、フロックコートでした。
 明治42年、寺田寅彦の留学中に、漱石家は燭台つきの竪型のピアノを購入します。森鷗外家は、前年の明治41年8月に娘のためにピアノを買っています。漱石は日記では、「子供がピヤノを弾いたつて面白味もなにも分りやしないが、何しろ中島先生が無闇に買はせたがるんだから仕方がない」、と記していますが、実は子供の教育に音楽は必要だと考えていたのです。
雑誌『明治之家庭』の明治42 年1月号の談話でも、子供は自由奔放にさせているが、特に音楽だけは稽古させていると語っています。ベルリンにいる寅彦に宛てた手紙に、「君の留守にとうとうピヤノを買はせられた・・・君が買へ買へと云つてゐたから」と書いています。さらに、「筆が稽古してゐる。それで来年の春は同じ位の年の人と 一所に演奏会へ出て並んで何かやるんださうだからえらいね」、と自慢までしています。自分の娘のことを「えらいね」とは、漱石にも親バカな一面があったのですね。
 明治45年6月9日、漱石は留学から帰国した寺田寅彦と彼の父親を東京音楽学校の定期演奏会に招待します。この51日後に明治天皇が薨去して、明治時代は終わります。お雇い外国人教師のユンケルが指揮をして、ロイテルがピアノ独奏、ヴェルクマイスターがチェロ独奏。管絃楽は東京音楽学校の職員と生徒が総出で、宮内省の怜人も管楽器の一部とティンパニーで応援しました。二管編成のフル・オーケストラでした。
 このたび漱石生誕150年を記念して、10月15日に「漱石が上野で聴いたハイカラ音楽会」というタイトルで、往時のプログラムを追体験するコンサートを行います。
洋楽は明治維新になって、国策で無理矢理導入されたものです。明治20年に東京音楽学校が創立されて以来たった25年で、どのような曲を演奏するまでに至ったのか、どんな曲目を夏目漱石が「ハイカラ会」と感じたのか、皆様に知っていただきたいと思ったからです。
会場は現代の上野の音楽の殿堂、 東京文化会館大ホールです。指揮は現在世界的に活躍している山田和樹氏。管弦楽は、山田氏の東京芸大学生時代からの仲間による「横浜シンフォニエッタ」です。チェロ独奏は実力派の遠藤真理さん、ピアノ独奏はミュンヘン音大で教鞭をとる川﨑翔子さんです。
 さて、大正5年、漱石は胃潰瘍が悪化して49歳で他界します。結局、漱石は生涯に少なくとも10回のコンサートと2回のオペレッタを体験していました。オペレッタ「ボッカチオ」は、娘と一緒に帝国劇場で観ています。
 ご静聴、ありがとうございました。

|

« 「気候変動の国際交渉と日本」 | トップページ | 「ガバナー公式訪問」 »