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2018年1月29日 (月)

「忠臣蔵余話」

11月30日卓話要旨
歴史研究家 伊東 成郎 氏
(角田 実会員紹介)
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 忠臣蔵の粗筋は、皆さまご存じと思います。播州赤穂藩主の浅野内匠頭が、江戸城松の廊下で何らかの遺恨をもって高家の吉良上野介に手傷を負わせたことで即日切腹となり、浅野家がお取り潰しとなりました。しかし、一方の吉良家には何のおとがめもなかったことに納得が行かない大石内蔵助ら47名は、艱難辛苦の末、刃傷事件からちょうど1年10カ月後の12月14日に本所松坂町の吉良邸へ討ち入り、主君の仇を見事に討つという日本人の心に染みるお話です。
 しかし、伝わっていることと現実とはかなり違います。例えば内蔵助は恰幅のいいやさ男ではありません。戯作者の太田南畝は、内蔵助と会ったことのある老人から聞いた実像を「痩せ形の、梅干しを見る如くの親父風なる男」と記しています。
 また、赤穂浪士たちは討ち入りまで、精神面でも生活面でも非常に苦労しました。弓の名手である早水藤左衛門は討ち入り2か月前、実兄に「生きて両親に孝行を尽くすことと忠義との板挟みに苦しみ、毎日涙で袖を濡らしている」という手紙を送っています。
 討ち入り当日の14日、江戸は前日から降り続いた雪がやみ、晴れました。内蔵助らは15日午前3時すぎ、太陽に照らされてがちがちになった雪を踏みしめて、吉良邸に向かいました。吉良邸の北側を除く他の三方は現在、道路に面していて歩くことができます。また、吉良邸の一画は、本所松坂町公園というなまこ塀に囲まれた、猫の額ほどの小さな公園になっています。
 討ち入り後、赤穂浪士たちは殿の墓前に上野介の首を供えるため、隅田川沿いを泉岳寺へと進みました。そのとき、絵心のあった侍が、統一された堅牢な火消しを装った義士の姿を描いています。個性あふれる頭巾・股引・足袋などの色目も書き出しており、義士たちが元禄カラーにあふれていたことが分かります。
 内蔵助は半数を率いて表門から、息子の主税は残りの半数を率いて裏門から討ち入りました。表門隊は2人の浪士がはしごを架けて屋敷に突入し、門番を縛り上げ、中からかんぬきを外して門を開けて突入しました。裏門隊は大きな木槌(掛矢)で裏門を叩き割って突入しました。このとき陣太鼓の音が響いたといいますが、掛矢で門を叩き壊すときの音が太鼓に聞こえたという説がほぼ確定しています。
 裏門近くの北西側に旗本の土屋主税邸があり、赤穂浪士のために庭から吉良邸に向けて提灯を立てて助けたという有名な話がありますが、その13年後、兵庫の織物商の組合が京都の天橋立近くの寺に奉納した絵馬に描かれた討ち入りの図にも、3本の高張提灯が立っており、事実だったことが分かっています。
 激闘2時間、吉良邸の南側、庭にせり出した物置の中から不審な物音が聞こえました。弓を射かけると、茶碗やお皿が飛んできました。続いて1人の侍が飛び出してきたので討ち取ると、中で動く者がいました。浪士の1人、間十次郎という槍の達人がこの人物に向けて槍を刺し、さらに出てきたところを武林唯七が首を斬り落としました。内蔵助が、捕らえた門番に首実検させたところ、これが上野介だと分かりました。上野介は炭小屋に隠れていたといわれますが、雪国ではない江戸の武家屋敷では炭小屋は作られておらず、炭は台所や軒下にしまっておくのが一般的でした。実際に上野介が隠れていたのは、ブランド品を収納する物置だったようです。
 内蔵助は討ち入り後、上野介の実子で上杉家に養子に入った綱憲が追っ手をかけてくるのを案じ、浪士の一部を裏門近くの両国橋のたもとに待機させました。しかし、幕府の力の前に上杉家は何もできず、内蔵助らは泉岳寺に到着しました。討ち入り直後、上杉家から調査で派遣された野本忠左衛門の書状には、吉良邸内の様子が詳述されています。吉良方にとっていかに突然の夜討ちだったかがよく分かり、この書状はもう少し日の目を見てもいい史料ではないかとも思います。
 内蔵助が討ち入り当日の昼に書いた手紙の中には、義士たちの勤務評定書ともいえるものが残っています。これはどう見ても、内蔵助の個人的趣味に走った勤務評定書だといえます。しかし、自分をトップにしているあたり、さすがに抜け目ないなとも思いました。このリストが討ち入り前に浪士にばれなくてよかったと思います。なぜなら、このリストを見て「とても討ち入りなどやっていられない」とドタキャンした義士が続出したのではないかと思うからです。

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2018年1月19日 (金)

「藤井四段に見る才能の違いと将棋脳の活用法」

11月9日卓話要旨
将棋棋士九段(東京RC会員) 青野 照市 氏
(小林 勝義会員紹介)
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 将棋棋士の世界はピラミッド構造であり、プロの下に奨励会という養成機関があります。私は15歳で奨励会に入ったのですが、現在は15歳で加盟しても99.5%はプロになれません。なぜなら、26歳までに四段(プロ棋士)にならないと、自動的に退会になるからです。奨励会全体で150~160人いるのですが、三段リーグを30人ほどで戦い、その中から半年に上位2人ずつプロ棋士になっていくという過酷な世界です。
 藤井聡太君は奨励会に9歳で入会し、14歳でプロ入りしました。また、彼はプロも参加する詰将棋解答選手権で、小学6年生のときから3年連続で優勝しました。詰将棋は計算能力があれば勝てますが、プロ棋士になるにはそれだけでは駄目です。
 私は奨励会に入って2~3年は、詰将棋を練習したり、他人の棋譜を覚えたりすることで順調に勝ち進みました。言語や計算を司る左脳の働きが優れていたのでしょう。しかし、想像力を司る右脳の働きが恐らく駄目だったのか、2年先輩の真部一男さんにはどうしても勝てませんでした。そのため、自分は左脳に偏り過ぎていると感じたので、絵や器を見たり、クラシック音楽を聴いたりして、感性を高めるようにしました。
 もう一つは、対局の記録係を進んで引き受けるようにしました。この仕事を敬遠して、棋譜のコピーだけで勉強する人もいましたが、記録をたくさん取った人の方が棋士になる割合が高いのです。プロ棋士のそばに一日中いて、自分が思った手をプロが指してくれると嬉しいですし、外れるとなぜ違うのだろうかと考え込みます。そのことが右脳を刺激したのだと思います。
 藤井君は詰将棋を解く能力も素晴らしいのですが、それ以上に他のプロ棋士が考え付かない手を考える点で素晴らしく、非常に才能のバランスが取れた棋士だと思います。過去、中学生でプロ棋士になったのは、彼の他に加藤一二三、谷川浩司、羽生善治、渡辺明しかいません。この4人は全て名人か竜王となっているので、藤井君も非常に期待できると思います。
 加藤先輩の引退で、私は関東のプロ棋士で最年長になってしまいました。弟子も随分取っているのですが、今年2月の朝日杯で優勝した八代弥六段は小学3年生の頃から、弱いながらプロも嫌がるような手を1局の中で2手ほど指していました。一方、とても頭の良い弟子もいましたが、左脳的な力はあっても、右脳的な力がないために、2年ほどで辞めてしまいました。特に、危機を感じるタイミングが遅いのです。
 「棋士は何手先まで読みますか」とよく聞かれます。10手先や15手先は読めますが、一つの局面で100通りの手があるとすると、2手先の可能性としては1万通り、4手先には1億通りの局面が存在します。ですから、計算ではどうしても手が読めません。結局は良い手の感触というか、第一感が大事です。奨励会を辞めてしまった子は、残念ながら第一感が弱かったのです。郷田真隆という棋士は対局後の振り返りで、相手から「この手はどうだったか」と聞かれ、「その手の先に幸せはないと思います」とよく答えていました。結局、幸せの濃度が見えるかどうかなのです。会社経営者にその話をすると、「私も同じです。新しい仕事が来たときに、もうかるかどうかを計算する前に、まず相手の顔を見て、この人と商売をすると幸せになれるかどうかを考えます。これを見誤ったら駄目です」と言っていました。
 10歳ぐらいから奨励会に入っていた人は、「その手の先は読まなかった」とよく言います。自分が得をする手は大体、駒の働きが悪くなってしまうから読まないのです。これはヤマ勘ではなく、長くその世界にいて、正しいルートを知っている人の勘なのです。恐らく右脳から発信されているのだろうと思います。私も10手や15手ぐらい先を読むと、たまに右脳と左脳がけんかすることがあります。そんなとき、左脳の計算だけの読みを信じて指すと、手が駒から離れた瞬間、背筋に冷水が流れる感じがして、「まずい」と思うことがあります。また、右脳はいくつになっても衰えないという研究があります。69歳で亡くなるまでトップに君臨した大山康晴名人は、「ここにこの駒があったら変だよね」という感想をよく口にしていました。つまり、画家がこの場所はこの色しかないという感覚で指す能力で晩年まで活躍できたのだと思います。
 AIとプロ棋士の対戦でも、プロ棋士なら絶対に指さない手をAIが指して負けることがあります。やはり人間の感性は素晴らしく、われわれは自分がいいと感じるものを大事にしていくべきだと思います。

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