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2018年2月 7日 (水)

「水都東京の再評価とその再生への展望」

1月25日卓話要旨
法政大学デザイン工学部 教授 陣内 秀信 氏
(児玉 正孝会員紹介)
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    江戸は、1603年に幕府が開かれ、1636年には外濠が開削されました。この当時は神楽坂まで船が入れたのですが、その後は埋め立てが進みました。
 私はヴェネツィア留学から帰国してすぐに東京の都市空間の研究を始めたのですが、東京の山の手は緑豊かな田園都市で起伏があり、下町はヴェネツィアのように平坦な土地を運河が巡っている面白い街です。江戸時代には日比谷まで入り江があり、武蔵野台地の突端に江戸城があったことなどが知られていますし、半蔵門や四谷などの高台を掘削して切通しを造り、それをつないで円環の濠にしています。
 全国から入ってくる物資は佃島で降ろされ、はしけで日本橋まで運んでいました。昭和初期までこの辺りが物流の中心だったのです。外国の都市と比べて非常に面白いのは、漁師町が街の中心近くに多くあったことです。日本人は水との付き合いが深く、水害の危険から身を守った上で、経済活動や安全祈願を行っていました。水辺には必ず神社やお寺があり、芝居へ行くのにも舟で出掛けていました。また、江戸を代表する遊興空間である深川や両国も水辺にありました。
 明治になって物流基地だった日本橋川にも洋館が建つようになりましたが、それが関東大震災で壊滅して、江戸から続く水の都のイメージは途切れました。しかし、1970年代後半に隅田川がお台場公園の辺りまで蘇りました。船宿や屋形船もこの頃に復活しました。そして、1980年代から江戸東京学が提唱されるようになりました。
 都心に人を戻そうというプロジェクトも始まり、それをきっかけにスーパー堤防という新しい工法が提示され、大規模再開発に際しては、防潮堤の高さをキープしながら、スロープで親水公園に下りられるようになりました。それ以外の一般の場所では、防潮堤の内側にプロムナードがつくられ、水辺を楽しむ光景が生まれるようになりました。水辺は日本人にとって、人が自由に集まり、花火もできるという点で本当に公共空間なのですが、日本人はそれをずっと忘れていたのです。それは、川が汚くて管理も厳しかったからです。
 バブルがはじけると、行政は水辺の再開発への関心を失いましたが、この間に欧米の都市は水辺を上手に再開発し、魅力的な街を造っています。日本はその代わりに、丸の内、大手町、渋谷、六本木などが開発されていきました。ウオーターフロントはデベロッパーのマンションだけになってしまいましたが、幸い東京スカイツリーができました。実は場所を決める際、さいたま市がリードしていたのを私たちのグループがひっくり返したのです。なぜなら、スカイツリーからの眺めは、江戸の風景を描いた鳥瞰図と同じ構図だからです。つまり、21世紀の東京を、江戸人が見ていたのと同じように見られるのです。スカイツリーの完成により舟運も復活しました。中央区が船着場を造ってくれたので、北十間川や横十間川、小名木川にも行けるようになりました。
 多摩川や荒川に加え、中小の河川が多いのも東京の特徴で、武蔵野台地の湧水が各地に池を生み、それが水源となって神田川のような中小河川になっており、水が都市を造っていることをよく示しています。また、江戸の街は循環系が非常にうまくできています。四谷、半蔵門の辺りに玉川上水が流れ込み、高い所から低い所へ水が循環しています。また、羽村で取水された玉川上水は武蔵野台地で分水されるので、豊かな農村地帯をつくるとともに、江戸の人々の飲料水ももたらしていました。環境用水として、外濠や内濠の浄化にも使われていました。現在は途切れ途切れになっていますが、私たちはそれをもう一回つなぎ、「歴史・エコ回廊」を作ろうと提案しています。
 皇居の緑は、歴史や生物多様性、静けさと落ち着き、風格とシンボル性を与えてくれる点で、世界に類を見ません。皇居周辺の並木道をもっと良くし、それと迎賓館、神宮外苑、新宿御苑の緑をネットワークとしてつなぐ発想に立てば、東京都心は世界にも稀な緑の都市になります。
 隅田川にもようやくオープンカフェがオープンしました。また、対岸の江東区にも「かわてらす」の第1号がオープンしました。実は、運河や島を残しながら海岸を埋め立てているのは世界でも東京だけなのです。豊洲も品川も運河を残して、はしけに載せ替えて倉庫に物資を入れていますが、それが群島(アーキペラゴ)を生みました。この最大の財産を生かして、世界にないタイプの水の都市を造り上げてほしいと思います。

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