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2018年4月 6日 (金)

「重要文化財『小林富次郎葬儀』に見る明治時代の神田」

3月22日卓話要旨
ライオン株式会社 社史資料室長 松村 伸彦 氏
(荻原 弘幸会員紹介)
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   ライオン株式会社は、今から127年前の1891年、初代小林富次郎によって神田の柳原河岸で創業しました。その後、大正時代に歯磨きを専門に売る小林富次郎商店と、石鹸を売るライオン石鹸に分かれ、これがライオン歯磨とライオン油脂になり、1980年に二つ会社が合併してライオン株式会社になりました。
 富次郎が生きた1852~1910年は、ペリーが浦賀に来航し、日清・日露戦争で勝利し日本が世界に進出していった時代です。歯磨きを発売したのは創業5年後の1896年で、その頃既に100社近くが200種類ぐらいの歯磨きを発売していたそうです。歯磨きの販売が少し軌道に乗った頃、富次郎は敬虔なクリスチャンだったので、社会貢献のために慈善券付き歯磨きを発売しました。その寄付金は主に育児園、感化院、出獄人保護所等に寄付されその総額は20年間で33万6000円に達しました。
 今回、重要文化財に指定されたフィルム「小林富次郎葬儀」は、オリジナルネガと上映用のポジフィルムが1本ずつ桐箱に収められて保管されていました。1910年12月16日に撮影されたもので、2011年3月18日に重要文化財に指定されました。映画フィルムの指定は、2009年の「紅葉狩」、2010年の「史劇 楠公訣別」に続き3本目です。一企業の社長の個人的な葬儀映像であるため、委員の方々も多少の抵抗感があったと聞いていますが、最終的には映像の鮮明さと、オリジナルネガが残っているという希少性が評価されたと思います。フィルム自体は可燃性のセルロイドフィルムであり、自然発火の危険があるため、2003年に東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈しました。
 なぜこのような映像が撮れたかというと、富次郎が当時の剣舞のスターである日比野雷風と幼い頃から知り合いで、かなり支援もしていたことから、映画制作会社の吉沢商会を紹介されたようです。また、連合艦隊初代長官の伊東祐亨元帥とも交流があったので、こういった方々から映像に収める話があったのではないかと推測されます。
 葬列のルートは、神田柳原河岸のお店から神田美土代町の東京基督教青年会館まででした。当時、近くに浜町川という運河があり、神田川と浜町川の合流地点に架かる橋を柳原橋といったのですが、柳原河岸のお店と柳原橋、葬列の終点である東京基督教青年会館の3カ所で映像が撮られています。今でいう岩本町のファミリーバザールを催している通りです。後に震災復興で作られた靖国通りの北側の細い道を通っていたのですが、当時は非常に広い道でした。
 富次郎は11月の寒い日、東京基督教青年会館の寄宿舎の完成祝賀会に参列して体調を崩し、亡くなりましたが、その一生は慈愛に満ちたものでした。
 現在まで残されている葬列の順序や式次第から、誰が葬列に加わっていたのかが分かります。先頭は法被を着た恐らく地元の鳶の方々で、その後に全国100以上の育児院や感化院、出獄人保護所などの施設から贈られた花輪が続きます。通りには頻繁に市電が通っていますが、当時の神田橋~両国橋線だと思います。
また、映像の中に鳥籠が出てきますが、当時、葬儀の際に鳥を放つ習慣があったようです。更に当時の服装ですが、紋付・袴になぜか帽子をかぶって足元が靴だったり下駄だったりしていますし、親族の女性は白い喪服を着ています。江戸から明治はこれが普通でしたが、これだけ多くの人が白い喪服を着ている映像は貴重だと言われています。
 富次郎は敬虔なクリスチャンだったので、教会関係の方々がかなり多く見られます。霊柩馬車の周りを友人が歩き、その前を横井小楠の息子の横井時雄、救世軍の日本で初めてのトップになった山室軍平、そして馬車の周りには神田に出獄人保護所を創設した原胤昭、毎日新聞社主で衆議院議長の島田三郎、麻布学園創始者の江原素六、森下仁丹創始者の森下博などが歩いています。一方で、髪型にしても、乗っている自転車にしても、今と違和感がないような人たちの姿も見られます。
 葬儀会場は、当初は東京大学近くにあります弓町本郷教会で行う予定でしたが、千数百人の差列者が予想されましたので、東京基督教青年会館に変更になったそうです。
この様に、明治時代の神田の様子をとらえた貴重な映像が現代まで残されています。

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