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2018年9月11日 (火)

「ガバナー公式訪問」

7月26日卓話要旨
国際ロータリー第2580地区 2018~19年度ガバナー 松坂 順一 氏
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  まず、お願いが二つあります。先日の西日本豪雨被害に対する支援を各クラブにお願いしています。被害が広範囲にわたるため、支援の形をガバナー会議長として検討しているところですが、特に被害の大きい広島、岡山、愛媛の3県に絞って支援する方向でまとまりつつあり、皆さんの支援金を9月ごろ、3県に届ける予定です。
 それから、三島にある米山梅吉記念館で来年9月14日、創立50周年記念式典が行われます。それまでに記念館を修復するためや記念事業のために約9200万円の費用がかかることから、全国のロータリアンにぜひ寄付をお願いしたいという呼び掛けがありました。1口3000円以上です。当地区は米山さんが創設した東京RCを抱えているので、各クラブに呼び掛けたいと思っています。
 ガバナーエレクトとして受けなければならない研修が二つあります。一つは昨年9月のGETS、もう一つは米サンディエゴでの1週間に及ぶ研修です。今年度のRI会長に就任したバリー・ラシン氏は本来会長に名前が挙がっていなかった方ですが、会長エレクトだった方が就任直後に亡くなったため、ラシン氏が急遽、会長エレクトに決まったそうです。この方が面接のときに、「ロータリーの組織が大事だ」という話をしていたのですが、非常にいいことを言う方だなと思いました。
 ラシン氏が今年のテーマを発表されたとき、日本語訳で「インスピレーションになろう」と聞いたのですが、最初は何を呼び掛けているのだろうと思うような内容でした。例年になく解釈が難しいテーマを挙げられたと思いました。彼は「ロータリーの奉仕は人々の人生、そして地域社会を変えるものです。前向きな変化を生み出し、我々が今日直面する課題に勇気と希望、創造性をもって正面から立ち向かう意欲をクラブ・地域・社会、そして組織全体から引き出すインスピレーションとなるため必要なのです」と言っています。
 私がガバナーの指名を受けたとき、ガバナーは地区で唯一のRI役員なので、まずはRIが考えていることや方向性を地区に帰って説明し、理解してもらうことが一番の仕事だと思いました。地区は各クラブをサポートするためにあることを忘れずに活動しようと考えたのです。当地区では1分区当たりのクラブ数が多かったため、当地区のガバナー補佐を6人から13人に増やしました。その13人のガバナー補佐にクラブ運営に深く関わってもらうために、月1回(計7回)のガバナー補佐エレクト研修を行いました。互いの意見をどんどん交換し合い、うまくいっていると思います。
 井上ガバナー補佐が担当する6クラブはあまり問題ありませんが、当地区70クラブには会員数40人を切るクラブが半数を超えています。そうしたクラブに対し、地区としてどう支援するかが課題です。ガバナーは年1回しかクラブを訪問しませんが、代わりにガバナー補佐がどんどんサポートしてあげられれば、もう少し変わってくると思います。
 もう一つ感じるのは、クラブの会長や幹事になる方への教育ができていないクラブが多いということです。当地区では全体的な研修組織しかないので、これを何とか変えたいと思い、ロータリーリーダーシップ研究会(RLI)の研修にたまたま参加し、とても刺激になりました。広島では会長エレクトと幹事エレクトを集め、1テーブル10人以下で、ディスカッションリーダーの進行の下、あるテーマについてどんどん発言させ、ディスカッションする研修を行っていたのです。RLIは世界で500以上あり、日本でも21地区が取り入れています。
 この方法を当地区でもやってみたいと思い、7月初めにディスカッションリーダーの勉強会を開いてみました。この研修を受けた方は50人ほどいるので、その方々を中心にディスカッションリーダーになってもらおうと考えています。これによって会長・幹事になる方の目が広がっていけばいいと思っています。
 それから、RIでは現在、クラブに所属しないロータリアンをつくることを考えています。しかし、それはおかしいと私は考えていて、クラブの皆さんもどんどん議論して、意見を上げるべきだと思うのです。
 貴クラブでは入会30年未満が30人もいるそうで、将来がとても楽しみです。親睦を中心とした楽しい例会を今後も続けていただければと思います。

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「支援先訪問報告」

7月19日卓話要旨
2017~2018年度 社会奉仕委員長  宮地 浩太会員

  2017~2018年度、社会奉仕委員会の活動として、過去に支援をした、また支援を続けている児童養護施設2ヶ所と認可外の幼児保育施設4ヶ所を、大塚会長、中島会員、藤井城会員、新会員と宮地の5名で、4月19日より2泊3日で訪問して参りました。
 児童養護施設2ヶ所(大洋学園・旭が丘学園)と、幼児保育施設4ヶ所(おひさま保育園・双葉保育園・若草幼児園/以上気仙沼市・入谷ひがし幼児園)。   また、岩手県大槌町で活動している子どもの学習支援団体「認定NPO法人カタリバ」(本部は東京杉並区)を訪問し、活動の様子、東北の様子を伺って参りました。
そして、6月24日には、「第33回大船渡市長杯児童福祉施設球技大会(8施設約200名の子どもが参加)」に、野球ボール8ダースとハンディ拡声器を寄付するとともに、球技大会見学と表彰授与式に、藤井会員と新会員2名が参加致しました。

■認可外幼児保育施設4ヶ所を訪問して
私どもの訪問を歓迎してくださったことは言うまでもありません。支援後の各施設の様子としては、被災後施設のスタッフの皆様や、子どもを預ける親御さんの協力もあり運営は続けているものの、やはり人手が足りない、雇い入れる資金が足りないと言う声が聞こえました。認可外から認可を取得すれば資金的には今より余裕が出てくるものの、園児たちの人数を制限せざるを得ず待機児童が増えてしまうことと、同時に地域の若い親御さんの労働力を活かすためにも子どもたちを預かる場所が必要ですと、おひさま保育園園長先生は、目を赤くしながら訴えていらっしゃいました。このお話は、2013年当時園児バスをお届けした際にも同じお話を伺っており、地域の問題が解決の方向に向かっていないことを示すお話として、強く印象に残りました。
また、双葉保育園では震災当時に生まれた子はこの春卒園し、園児たちは地元気仙沼の小学校に通う子は一人だけだったと言うお話、南三陸町の入谷ひがし幼児園園長先生の、人がだんだん減ってきていることによる園の運営や、自身の先々に対し不安で眠れない日も多いとのお話は、被災地から離れた人たちが未だ戻らず被災前からあった過疎の形相がむき出しになってきていることを実感し、日本国内中にある過疎問題が、被災した地域にはより大きな問題としてのしかかっていることを強く感じた次第です。
■児童養護施設2ヶ所を訪問して
現在の日本における児童養護施設は、600ヶ所を超えて増えており、平成28年10月時点で27,000人を超えた子どもたちが施設で生活をしています。そして保護される子どもの約6割は虐待が原因と、厚労省はその数字をあげています。また、虐待への児童相談所への問い合わせは、平成27年時点で10万件を超えています。また、園を卒業後、退学・退職率も高いという現実があります。
子どもは家族の中で育つべきと里親制度も進んではいるものの、先進国との比較では非常に低い数字となっています。約2割程度でしょうか。お隣韓国の約半分程度、欧米との差は大きく、国によっては三分の一から四分の一程度でしかありません。国の予算が施設に、子どもたちに向けられにくい中、社会的養護について多くの方々が考え、できることに関わりながら社会的風土を将来の日本に向けて素地を整えていく必要を強く感じます。その意味でも、東京神田ロータリークラブの過疎化の止まらない地域であり、被災し先の見えない地域に存在する児童養護施設に関わることの意味と意義は、計り知れないと感じています。

■「認定NPO法人カタリバ」の紹介
岩手県大槌町は、東北被災地の中でも町長自身が犠牲になり、復興へのスタートが遅れた地域です。その中でカタリバは、子どもたちの学習支援を担ってきた団体です。地域・学校との連携も素晴らしく、登校拒否の子どもが、カタリバに行って勉強すると出席扱いとなるそうです。震災を経験してきた子どもたちの心境は、想像の域でしかありません。学習支援という行為を通じて、子どもたちのそばにいることの意味は、どれだけの子どもたちの精神的支えになってきたでしょうか。その意味で、子どもたちのためにクラブとして支援応援する団体としての検討価値を感じます。小さな寄付で大きな成果を上げることのできる団体と言えます。

以上簡単ではございますが、ご報告とさせて頂きます。クラブとして東北支援期間を10年と決め、進めております。残り今期を含めた4年間に、東北の地に躍動感が大きく生まれること願って止みません。

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「老舗が挑戦する新ブランドホテル」

7月12日卓話要旨
(株)龍名館 専務取締役 濱田 裕章氏
(浜田 章男会員紹介)
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  当社は今年12月、新橋6丁目に3店舗目となるホテルを開業する予定です。最寄り駅は地下鉄御成門駅です。龍名館という旅館は、東京駅の近くを含めて2店舗あるのですが、このホテルは龍名館ではなく、「ホテル1899東京」という新しいものにしました。
 龍名館は1899年(明治32年)に創業し、来年で120周年を迎えます。神田駿河台にお茶の水本店があり、2014年に改装しました。改装前は6畳1間で、窓辺に洋間があるという「ザ・旅館」でしたが、改装後は9室だけ、1泊5万~6万円の価格で販売していて、宿泊客の9割ほどを外国人が占めています。
 一方、「1899」はお茶をテーマにしていて、1階では土産物としてお茶を販売します。飲食スペースでは中央にショーケースがあります。当社は会席料理を提供していますが、今回はカジュアルな業態に挑戦するため、デリカテッセン形式とし、ショーケースで注文し、自席に持っていって食べる形にしています。客室は、本店と比べてそれほどゴージャスではなく、1室20~30m2を中心とした広さです。全室ダブルベッドで、海外の方を中心にご利用いただけると考えています。
 当社の旅館はいずれも100年以上前にできたので、100年ぶりに新規のホテルを造ることになります。新ホテルを開業するに当たり、どんなホテルにしようかと考えたのですが、前提条件として龍名館はお茶の水と東京駅にあるので、3棟目の龍名館を造るのか、別のものにするのかを検討しました。その結果、「龍名館」という名前を使わないことにしました。なぜなら、龍名館は隠れ家的なポジショニングが価値を持っているからです。新ホテルは新橋にできるので、既存の2軒と離れているように見えますが、この距離感でホテルを有するとチェーンホテルという印象があります。龍名館として評価していただいているポイントとずれてくると考え、2軒の旅館を守るために龍名館の名前を使わないことにしたのです。
 次に、新しいブランドを考えるか、既存のブランドを使うかを考えました。当社には「1899」というお茶をテーマにした創作和食店があり、そのブランドに可能性があると考え、ホテルにしました。「1899」は2014年の改装時、新規に立ち上げた店舗で、例えば料理に抹茶を混ぜたり、だしにお茶を使ったり、今思えば少し軽い気持ちで始めた業態でした。しかし、お茶には茶道という文化的側面もあれば、産地や農家によってこだわりがあります。そこで、お茶に対する考え方を改めて整理してみて、ブランドをしっかり作っていくことに挑戦することにしました。
 ホテルを選ぶ基準として、目的地に近いから、広いから、安いからという側面もありますが、あのホテルは良いから泊まろうというような目的がないと、ホテルとして生き残っていくことは難しいと思います。ですので、なぜ私たちはお茶を扱っているのかということを、社内でブレーンストーミング(集団思考)を行い、約1年かけて言葉とビジュアルで整理しました。そして、「お茶と共に過ごす、ゆるやかな時間の経験を通して、人々の心の満足度と満足の持続を提供すること」をホテル・レストランが共通して大切にすることにし、コンセプトに合ったロゴマークや商材写真、サインなどに統一するためのガイドラインを定めました。ガイドラインをまとめてくれた業者に館内デザインも依頼したので、ガイドラインを忠実に守りながらホテルを造り込んでいます。
 今回、新たなブランドを確立したいというのが私たちの目指すところなのですが、ガイドラインを作っても社員が守らないこともあります。そこで、地道ではありますが、ガイドラインを書いた言葉をポケットに入れられるようなカードを作って配り、会議のときなどに必ず唱和するようにしています。現在、ティーバッグやお茶のケーキなどの商品を作っていますが、それらもガイドラインにのっとってデザインしています。また、ホテルの制服や館内BGMについてもガイドラインを軸に検討をしています。新たなブランドとして確立しているかどうか、今後温かく見守っていただきたいと思います。
 これまで「1899」についてずっと整理してきたので、龍名館においても同じ作業を行い、この5月に全く同じような形でガイドラインが完成しました。11月には内覧会を予定しているので、皆さんにはこれで本当にブランドができるのかという観点で見学していただけるとありがたいと思います。

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「日本とニュージーランド:素晴らしいパートナー」

6月21日卓話要旨
駐日ニュージーランド大使 スティーブン・ペイトン 閣下
(多田 宏会員紹介)
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   私が妻と共に初めて日本を訪れたのは1984年のことです。私はその後、東京のニュージーランド大使館で二等書記官として務めました。当時はバブル経済で、東京は活気に満ちており、私たちは日本中を旅することで日本が大好きになりました。しかし、1994年に2度目の駐日となったとき、日本はすっかり変わっていました。私は大阪の総領事となり、妻と幼い娘2人と共に神戸で暮らし始め、阪神・淡路大震災も経験しました。
 私たち夫婦は互いのキャリアを継続させようと努力してきました。娘たちが独立すると、さらに柔軟に働くようになり、妻が2014年、駐オランダ大使に就任すると、私も同行しました。そして2016年8月、私は大使として日本に戻りました。妻は昨年8月、オランダ大使の任期を終え、東京で再び一緒に住んでいます。私たちは幸運にも2020年まで日本に駐在しますが、日本ではラグビーW杯や東京オリンピックが開催されるので楽しみです。
 昨年、わが国では総選挙があり、3党連立の新政権が誕生しました。ニュージーランドでは3人目の女性首相であるジャシンダ・アーダーンは、現在37歳です。出産のため、今朝3時ごろ入院しました。まだ吉報は届いていませんが、もうすぐでしょう。首相在任中の出産は史上2人目です。ニュージーランド人として大変誇りに思います。
 わが国は1980~90年代、行財政改革を実施しました。主な内容は税制改革、財政再建、農業補助金撤廃などです。そのおかげでわが国の農業は多様化し、おいしいワインなども生産しやすくなりました。改革は政治にも大きな影響を与えました。2000年以降、政治が安定し、労働党政権が9年間、国民党政権が9年間続きました。2000年には選挙制度が改正され、連立政権がうまく機能するようになり、現政権に至っています。
 経済も安定的に成長しています。その理由として主に三つが挙げられます。一つ目に人口が増えており、特に最大都市のオークランドでインフラ・住宅の建設ラッシュが続いていることです。2011年に震災に見舞われたクライストチャーチの復興も進んでおり、建設業界は非常に活発です。二つ目に、農業製品のグローバル市場における価格上昇です。特に酪農製品が高騰しています。三つ目に、日本と同じくわが国を訪れる観光客が増加し続けていることです。
 わが国と日本は、地理的に似ている点が多いですが、社会の様相は大きく異なります。先住民のマオリ人が定着したのは13世紀ごろであり、わが国は世界で最も若い国の一つです。植民地の歴史は18世紀に始まり、アジアからの移民は19世紀に始まっており、現在のニュージーランド社会は多様性に富んでいます。国としては新しいですが、ユニークな社会を確立しています。
 わが国と日本は、安全保障において強いパートナー関係にあります。米国がアジア太平洋地域を管理し続けられるよう両国は協力していく必要があります。その上で、世界の課題に対し、両国が国際社会とともに取り組む必要があります。特に小国なので、国連やWTOなどの国際機関を大事にしています。ですから、最近の米国の動向はやや懸念されます。
 ニュージーランドの経済は中小企業によって支えられています。その多くは国際市場で競争しており、日本も重要な市場です。日本の農産物市場は必ずしも開かれていませんが、われわれは長年にわたり安全で高品質な農産物を供給してきました。CPTPPにより、両国はさらに強固なパートナーシップを確立できるはずです。また、わが国は日本からの投資を歓迎してきました。特に農林漁業やエネルギー分野で日本から重要な投資を受け入れています。これからは再生可能エネルギー、水素、ロボットなどの新分野でもさらなる経済協力を進めたいと考えています。
 両国では人的交流も長年進められてきました。40ほどの姉妹都市関係が結ばれているほか、姉妹校や友好協会も多くあり、われわれも友好促進を図るための特別な招聘プログラムを用意しています。青少年を対象とした英語とスポーツ合体型の教育プログラム「Game on English」も人気を集めています。
 現在も首脳・大臣級で両国の交流が大変活発に進められています。これから日本では大きなスポーツイベントがめじろ押しですが、両国にとって交流促進の大きな機会になると思います。皆さんも今回を機に、ニュージーランドのことにもっと関心を持っていただけたらうれしいです。

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「病院、コンビニ用等非常用電源としての水素の備蓄」

6月14日卓話要旨
(株)新エネルギー研究所 代表取締役研究所長 亀田 光昭 氏
(久保 和人会員紹介)
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   東日本大震災ではライフラインの分断により、非常用電源を持たない中小の病院やコンビニなどで手術や冷凍食品の保存ができず、大きな社会問題となりました。対策として、いろいろな形のエネルギーの代替品が開発されていますが、一長一短があります。日本は原子力発電に代わるものとして火力発電に活路を見いだしていますが、火力の燃料は石炭、天然ガス、石油等の化石燃料であり、地球温暖化という大きなマイナス要因をもたらす二酸化炭素(CO2)を大量に発生します。日本はパリ協定で、2030年までにCO2を26%削減(2013年比)することを国際公約しています。その中で非常に注目されたのが水素を利用した燃料電池です。
 再生可能エネルギー(太陽光、風力、水力、地熱、バイオ、潮力、波力)は、電線を使ってそれぞれの消費者(地)に送る系統電力としてあまり適当ではありません。発電量と消費量をバランスさせることが電力会社の仕事であり、発電された電力を取っておく方法として考えられたのが、水を電気分解して電力を水素の状態でためておく方法です。水素を備蓄するためには、一般的に温度を下げて液体にする方法がよく知られています。この方法によって、岩谷産業はオーストラリアの安価な褐炭を使って水素を製造し、川崎重工業はタンカーを造って日本へ運び込もうとしていますが、そのタンカーがまだできていません。非常に低温で管理しなければならないので、なかなか難しいのだと思います。
 それに対し東芝などが推奨しているのは、ガスタンクの中に水素を高圧ガスとしてためておく方法です。トヨタ自動車やホンダなどが開発している燃料電池自動車は、非常に高圧の水素ボンベを積んで走ります。しかし、高圧ガスや液体水素は純粋な水素なので、使い勝手は極めて良いのですが、日本国内の水素単価は1Nm3(0℃、1気圧における1m3)当たり100円と非常に高いのです。そこで国は今年12月に水素基本戦略を発表し、2030年には30円、将来的には20円にする計画です。なかなか難しいですが、これらを実現させないと、日本は国際公約を守れないと思います。
 燃料電池は水素を燃料源とし、熱と電気だけを発生するので環境には非常にいいですが、現段階では燃料電池を作るために非常に多くのCO2が発生します。そこで、日本は世界に先駆けて、CO2が出ないような水素エネルギー社会をつくろうとしています。
 サウジアラビアなどの産油国では近く、原油を石油としてではなく、化学工業の原料として輸出することを決めています。代表的なのがナフサですが、似たようなものに一酸化炭素(CO)とCO2があります。COと水を反応させるとホルマリンになり、CO2に水素を反応させるとメタノールになります。さらに、サウジなどでは広い砂漠で太陽光発電をしていて、太陽光による電力価格は1kw=1セント(1円)を切ろうとしています。日本の太陽光電力の価格は18円、火力は10円ですから、もし1円の電力を使って水を電気分解すれば、とても安価な水素が大量に増えて、余るようになります。また、化学工業の原料としてCOやCO2が使えるようになれば、水素が大量に余ります。その水素に目を付けたのが三菱商事、三井物産、日本郵船、千代田化工であり、産油国で余った水素を大量に日本へ持ってこようとしているわけです。
 その運搬・備蓄方法として有機ハイドライドがあります。一つは、現地でトルエンに水素分子を結合させてメチルシクロヘキサンにして日本へ持ち込み、再び水素を取り出す方法です。これは現在使っているタンカーがそのまま使えます。もう一つは、メタノールと水を反応させる方法です。現在、三菱ガス化学や三井化学などがメタノールにして日本に運んでいます。
 水素は今まで非常に高価なものと考えられていましたが、こうした方法が本格的に進めば安くなります。また、CO2自体が悪者なのではなく、燃料や樹脂など化学工業の原料にする考え方に変わっています。三菱商事や千代田化工は、ブルネイから常温の化学品にして水素を輸入し、水素で発電しています。また、NEDOはCO2を利用してメタノールとオレフィンを製造しようとしています。このように、CO2をストックする考え方から利用する考え方になりつつあります。
 現在、非常用電源を最も必要としているのは、病院やコンビニではなく携帯電話などの通信関係です。その非常用電源として、われわれは燃料電池を提案しているのです。

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「そしてフェイク経済の終わりが仕組まれる」

6月7日卓話要旨
(株)ティーモデルアイ 代表取締役 塚澤 健二 氏
(清水 宣夫会員紹介)
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    私は今年2月26日付で「相場の未来を暗示する2つの重要な数字」というコラムを書きました。重要な数字の一つは、米10年債利回りの「3.03%」です。この数字を上回れば本格的に金利が上昇するとみられるのですが、4月に達成しました。もう一つは、2月末時点でのNYダウ「26149ドル」超えです。これを超えないと、NYダウはしばらく低迷するとみられていたのですが、2月末に「VIXショック」が起きて、急落してしまいました。
 米長期金利と原油価格は今後の世界経済にとってとても重要です。米長期金利はCPI(消費者物価)と連動するように、1980年ごろをピークに下がってきたのですが、金利はCPIだけで左右されません。ニクソンショック以降、実体経済に比べて金融経済の方がはるかに大きくなっているので、金融経済が変な動きをすれば金利が暴騰するという状況が間近に迫っています。
 世界のデリバティブの残高は5京円に上ります。その中で一番多いのが債券のデリバティブで、この比率が上がれば上がるほど金利を下げます。今の世界的な低金利は、このデリバティブ商品をフルに使って無理やり作り上げているのです。現在、債券のデリバティブの比率は限界の8割に達しているので、これから同比率が下がれば金利が上がります。もし、サブプライムローンのときのように破綻が連鎖すると、大変なことになります。
 米長期金利は30~35年サイクルでボトムとピークがあり、2011~17年にボトムを付けたので、今後2040年のピークに向けて上がっていくでしょう。そうすると、いろいろな社会の仕組みが金利上昇を前提に動いていく必要があります。特に2020年以降、それが相当表面化してくると思います。
 現在、米国の株が上がっているのは「3つの緩和」を行っているからと考えられます。一つ目は金利を下げることですが、金利はもう下げられないところまで来ており、金利と株価が乖離しています。二つ目は量的緩和ですが、2014年12月以降は緩和していないのにNYダウが上がっています。では何が株価を上昇させているかというと、FOMC政策金利(短期金利)を長期金利を超えるほどまで上げるという、3つ目の緩和策です。この現象は2006年11月にも起きていて、その後リーマン・ショックが起きました。ですから、この長短金利逆転のニュースが出てきたら、そろそろ危険なことが始まるから株はやめておこうと考えた方がいいかもしれません。
 世界の通貨供給量は2016年に87.9兆ドル(約1京円)まで拡大しましたが、GDPが追いついていません。つまり、お金だけが膨張して、実体経済が成長していないのです。なぜなら、先進国がサービス産業化し、付加価値が落ちているので生産性が上がらず、成長率が上がらないからです。成長率を維持するには消費を増やすしかないので、消費者に借金させ、そのために資産バブルをつくらなければなりません。だから、米国はローンバブルをつくっているのです。米国の家計債務はリーマン・ショック前に12.6兆円でしたが、今は13.2兆円と過去最高です。中でも自動車ローンと学生ローンが問題です。学生ローンの貸倒償却率は8.9%で、急激に悪化しています。そして、このような多額の学生ローンを抱えて社会人となった人々に住宅関連業界は、住宅を購入しやすくなる制度を導入し、さらに借金地獄に突き落とすようなことを始めています。まるで住宅を購入できない層に住宅を買わせたサブプライムローンと同じです。
 また、米国の企業債務は、リーマン・ショック前の倍以上になっています。大きな理由は自社株買いです。それは自己資本利益率(ROE)を上げるためであり、プロの経営者はROE目標を達成すると莫大なストックオプションをもらえるからです。しかし、金利が上がると借金が返せなくなり、全てが終わります。そうした状況が間近に迫っているのです。
 ナスダック総合指数とドル建ての日経平均株価は同じ動きをしており、今年中に重なる可能性がありますが、重なった後が怖いのです。そうなれば株はやめた方がいいです。それまでは、日本の株は上がる可能性が高いです。投資には上場投資信託(ETF)がお勧めです。例えば市況が上がると思えば「日経レバレッジ」、下落局面ならば「日経ダブルインバース」を買っておくと安全です。今までは株価が上昇しないともうからないと考えられていましたが、これからは相場が下落する局面でも投資できるのがETFであり、日本でも主流になりつつあります。

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「35年の歌手生活で、出会った人々」

5月31日卓話要旨
歌 手 原田 悠里 氏
(中島 英嗣会員紹介)
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    私はいろいろな方に恵まれて、歌手の夢をかなえることができました。昨年は歌手生活35周年の節目を迎えたので、今年はまた新人歌手になったつもりで新たな一歩を歩んでいきたいと思っています。
 私は子どもの頃から、「学校の先生になるように」と親から言い聞かされていました。しかし、当時は美空ひばりさんの歌が街にあふれていたので、物心がついたときから「いつか歌手になりたい」という気持ちが芽生えていました。一人っ子の私は、歌手の夢を封印しながら鹿児島大学教育学部に進み、音楽科を専攻しました。そして卒業するとき、故郷に残っていては夢が遠のくと思い、横浜の小学校に就職しました。横浜まで行けば、クラブ歌手か何かをしているうちにどこかで見初められて、歌手になれるのではないかと考えたのです。そして、音楽教師を2年間しました。
 歌手の夢を諦めかけていた頃、当時パーソナリティーを務めていた放送局の人に「歌手を志しているのだったら新宿コマ劇場に見に行こう」と連れていかれました。そこで公演していたのが北島三郎先生でした。そのとき、まさに魂を揺さぶられるような歌声を聴いて、「北島先生なら歌手の夢をかなえてくださるのではないか」と勝手に思い込み、北島先生の門をたたいたのです。
 その後、付き人の期間もほとんどなく、デビューさせていただきました。当時は山本譲二さんらがヒットを飛ばしていた時代です。そのときにうちの事務所が低迷していたら私の出番はなく、弟子のまま終わっていたかもしれません。そういう意味では、歌手の道を開いていただいたのも、いいタイミングがあったからだと思っています。
 そうして私は華々しくデビューしたのですが、デビュー曲は鳴かず飛ばずで終わってしまいました。続けるのは無理かなと思っていた頃、出会った曲が「木曽路の女」でした。歌手は良い曲と巡り会うだけでは駄目で、タイミングが重要です。当時は女性がカラオケに目覚め始めた頃で、「木曽路の女」をよく歌っていただくようになり、1年をかけて100万枚を売り上げるという初めてのヒット曲になりました。
 しかし、私はクラシックの発声が身に付いていたので、演歌を歌う上で仇になっていました。そのとき、北島先生から「浪曲は日本古来のこぶしや間の取り方を使うし、日本の心を歌っているから、浪曲を勉強した方がいい」と言われ、門をたたいたのがキングレコードの先輩である二葉百合子先生でした。「岸壁の母」という名曲を歌われた方です。
 それによって、私の演歌も皆さまの心に少しは届くようになったのではないかと思っていた頃、出会ったのが「津軽の花」という曲でした。私は何としても紅白歌合戦に出たいと思っていたのですが、その夢をかなえてくれたのがこの曲でした。明るく元気な応援歌です。当時はバブルがはじけた後で、もうちょっと頑張ればまだ引き戻せるのではないかと考えられていた時代です。ですから、当時は私が一生懸命盛り上げようと思ってこの曲を歌っていたのですが、今この曲を出しても「この曲では頑張れないよ」と言われていただろうと思います。「津軽の花」にも、そういうタイミングを感じています。
 もう一人の心の師匠は、鹿児島大学の大先輩である稲盛和夫先生です。13年前、私の父が亡くなって心にぽっかり穴が開いていたときに、「私も盛和塾(稲盛氏が塾長を務める経営塾)に入らせていただいていいですか」と申し上げたら、稲盛先生に快諾していただいたのです。入塾には大変な審査があると聞いていましたが、私は見事な「裏口入塾」でした。それ以後、塾長の下でささやかながら利他の心を教わっています。
 稲盛先生に何かしら恩返しをしたいと思っていたところ、先生は『ごてやん』という本を書かれました。鹿児島弁で「頑固者で、素直ではない男の子」という意味なのですが、先生の幼少期は「ごてやん」で、甘えん坊だったそうです。私は、その本の内容を基に「ごてやんの歌」を作詞し、昨年発売させていただきました。先生に「今の時代は10万枚売れれば大ヒットです」と申し上げたら、「よし、10万枚を目指して頑張ろう」と言ってくださいました。この曲は私の師匠を歌ったものですので、大切に歌っていきたいと思います。
 原田悠里の歌を聞いてみたいと思われる方は、毎年11月7日に東京でコンサートを開いていますので、一人でも多くの方に聞いていただければと思います。

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「日本のおもてなしは世界に通用するか」

5月17日卓話要旨
NPO法人観光情報流通機構 理事長 石原 直 氏
(木下 照雄会員紹介)
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  2020年東京オリンピック誘致のために日本のチームがプレゼンテーションをしたとき、滝川クリステルさんは「お・も・て・な・し」と言いました。英語ではホスピタリティーのことなので、「ホスピタリティー=おもてなし」という感じで世界にアピールしたのですが、ホスピタリティーとおもてなしは一緒なのかという疑問があります。
 おもてなしを「広辞苑」で調べると、「厚くお客さまを遇する」とあります。ですから、おもてなしの対象はお客さまです。ホスピタリティーはどうかというと、対象が異なっていて、guest、visitorの他にstrangerがあります。これら全ての人々に向き合うことがホスピタリティーなのです。
 ホスピタリティーはラテン語のホスピスが語源ですが、ラテン語を使っていたローマ帝国は多民族・多宗教の集まりでした。ですから、隣にいる人間がどういう人か分かりません。その世界でのホスピタリティーとは、私があなたの敵ではないことを示すことであり、人間同士が生きていくために不可欠な要素でした。その点でわれわれのおもてなしの考え方とは多分に違うと思います。
 日本のおもてなしで代表的なのは、茶の湯の「一期一会」です。亭主がお客さまをもてなすのですが、徹底的にお客さまのことを研究し、どうすれば喜んでもらえるかを考えて準備します。最も日本らしいところは、わざとらしくしないことです。このさりげなさが茶の湯のわびさびに通じると思います。逆に客側はそれに応える形で、器や掛け軸などを褒めたりして評価します。つまり、かなりレベルの高い人間関係がおもてなしの根底にあったと思います。
 こうした日本人の奥ゆかしさや思いやりは世界に通じるものではないかと思うのですが、最近は少しずつ通じなくなっているようにも感じます。おもてなしやホスピタリティーは特別な技術ではなくて日常生活や常識の延長であり、自然と身に付くものなのですが、最近は3世代同居が減ったり、家族が一緒に過ごす時間が短くなったりしているため、常識を培う環境がどんどん損なわれています。
 近年は近所付き合いも減り、自治会組織を維持するのも困難になり、価値観を共有することが難しい時代になりました。こういう中で、日本人が今まで行ってきたおもてなしも変わってきています。しかも、国際化の進行によって、身近に外国人が多く住むようになり、外国人観光客も増えています。ですから、外国人も含めて一つの新しい常識が生まれないと、おもてなしができないのではないかという気がしています。私は藤田観光で箱根小涌園を経営していたことがあるのですが、欧州からの宿泊者の苦情で一番多かったのは、夕食時間が早いことでした。欧州では夜9時ごろからが普通です。こうした生活習慣が異なる人たちを本当におもてなしできるのかという心配があります。
 それから、宗教の違いもあります。ハラールの問題などはごく一部であり、イスラムの人たちは決まった時間に決まった方角に向けて礼拝しなければなりません。そうした人たちへの対応も必要ですから、外国人をおもてなしするということは、「いらっしゃいませ」と言って接客する以前の問題がまだまだたくさんあるように思います。
 また、言葉の問題もあります。私は小田原に住んでいるのですが、あるご夫婦が駅の窓口で、英語で何か問い合わせているところに遭遇しました。すると、そこにいた男女の駅員は英語が分からず、夫婦の顔も見ないで対応していたのです。腹立たしかったのは英語が通じるかどうか以前に、相手が何を言いたいのかを聞いてあげる努力が全く見られなかったことでした。アジアの観光産業では、情報を全て英語で発信することで合意していますが、今の日本の英語力はどうかというと、50年前と変わっていないように思います。
 日本人は基本的におもてなしの精神を持っているはずなのですから、これから発揮していく必要があります。そのために一番大事なのは、はっきりと相手に意思を伝えることです。特に外国人に対しては、はっきりと意思表示をすることが重要です。
 私がホテルオークラの総支配人になって接客について勉強していたとき、ホリデイ・インのCEOが言っていた「Smile is everything and cost nothing」という言葉が心に残っています。スマイルは世界共通のおもてなしであり、ホスピタリティーであるという気がします。

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「日本人の面白い名字」

5月10日卓話要旨
日本加除出版(株) 代表取締役会長 尾中 哲夫 氏
(久保 和人会員紹介)
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   名字には、必ずいわれがあります。そもそも名字は公文書で正式に使われる言葉ではなく、俗語的に使われているのですが、土地の名前から付けられた字という意味があることから一般化されています。また、「苗字」とも書くのは、田んぼに植えた苗がどんどん大きくなっていくように、自分の子どもも大きくなってほしいという意味がこめられているからです。正しくは氏と言い、氏と名前を合わせて氏名と呼ぶようになりました。
 現在のように全ての日本人に名字が付くようになったのは明治8年からです。名字は昔からありましたが、名字は戦で勝った者が堂々と名乗るものであり、負けた者は恥ずかしくて名乗ることができなかったため、だんだんと消えていきました。江戸時代には、名字を持っていたのは武士や国学者など地位のある者だけで、一般庶民は持つことが許されませんでした。
 明治維新のとき、戸籍制度を作ろうという動きが生まれ、明治3年に一般庶民(平民)も名字(苗字)を付けてよいとする太政官布告が出されました。しかし、名字を付けるにはお金がかかるので、なかなか付ける者がいませんでした。
 それが明治5年に戸籍制度が始まったため、名字を付けていないのに戸籍制度は存続できないということで、明治政府が同8年、今年中に名字を付けない者は罰するとした太政官布告を出しました。それで人々は慌てて寺の和尚や神社の神主、国学者のもとへ飛んでいき、苗字を付けてもらったのです。
 そのとき、松の下に住んでいるから松下、田んぼの中に住んでいるから田中など、簡単に付けられた名字が多かったのですが、中にはとんちを利かせた名字もありました。例えば「薬袋」と書いて「みない」と読む名字があります。これは山梨県に多い名字です。武田信玄は晩年、体が弱く、薬袋を隠して持ち歩いていたのですが、それを落としてしまい、家臣が平伏していたそうです。信玄は薬袋を拾い上げながら「そちは見ないな」と尋ねたところ、家臣が「見ておりません」と答えたので、「そちは『薬袋(みない)』の姓を名乗れ」と言ったのが発祥だそうです。
 名前にも面白いものがあります。例えば「△□子」「〇子」も実際に戸籍謄本に載っていた名前です。「△□子」は三角と四角で「みよこ」、〇子は「れいこ」と読みます。父親から届を受けた村役場がこの名前を付けていいかどうか法務局に問い合わせたところ、記号は駄目だと言われました。しかし父親は、「一子や三代子のように数字の入った名前は受理するのに、〇(零)の入った名前を受理しないのはおかしい」と言って、役場はやむなく受理したそうです。そして、孫の名前は「大無我平院殿発悟理二郎入道源△□○(たむがびょういんでんほっこりじろうにゅうどうみなもとのみよまる)」だったそうで、これらの名前は昭和22年の民法改正で改名されました。
 姓名で面白いのは、一二三四五六七八九十郎左エ門さんです。「一二三(ひふみ)」が名字で、名前は「しごろくしちはちくじゅうろうざえも(ふろたくぞう)」「胃袋破裂(いぶくろはれつ)」や、「富士山」と書いて「ふじたかし」「ふじのぼる」と読む名前は静岡県に多いです。
 面白い名字もたくさんあります。平仮名の「い」、片仮名の「イ」と書いて「かながしら」と読みます。「一」と書いて「にのまえ」、「九」と書いて「いちじく」、「十」と書いて「つなし」と読みます。「一つ、二つ、三つ」と数えていくと、十は「つ」が付かないからです。「一口」と書いて「いもあらい」と読むこともあります。広い部屋に人がたくさんいて火事や地震が起こったときに、一つしかない出口に人が集まる様子がまるで芋を洗っているようだからです。
 山がなければ里から月がよく見えるので「月見里」と書いて「やまなし」、小鳥は天敵のタカがいなければ遊べるので「小鳥遊」と書いて「たかなし」、栗の花が落ちるのは梅雨入りの時期なので「栗花落」と書いて「つゆり」と読みます。「四月一日」は衣替えの時期で綿を抜くので「わたぬき」、「八月一日」は稲穂を刈る時期なので「ほづみ」と読みます。また、「小柴(こしば)」から「小此木(おこのぎ)」に、「久米(くめ)」から「粂(くめ)」というふうに変遷した名字もあります。また、私が以前聞いたところ、「札幌」「新潟」「東京」「沖縄」という名字はありませんでしたが、今は大阪に「東京」さんが6家族いるそうです。
 まだまだ面白い名字がありますが、皆さまもご自身の名前のいわれについてぜひ考えてみてください。

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