« 「ガバナー公式訪問」 | トップページ | 「東京オリンピック1年前」 »

2019年9月 2日 (月)

「神田あれこれ」

8月1日卓話要
纐纈 公夫会員 ((有)大屋書房 代表取締役)
(井上 貴夫会員紹介)

201981thumb1
 神田のメインストリートである靖国通りには、今から45年ほど前、京葉道路から新宿に抜ける高架道路の計画がありました。しかし、私ども書店街が高架化に反対したため、計画が中止になりました。新宿線を通す前、最初に神保町に開通したのは三田線で、そのときには高架道路のための基礎が地下に造られていました。そのため、今のところ神保町の交差点にエレベーターやエスカレーターを造るにはかなりの予算が必要らしく、新たに設置するのは難しいようです。今後も高架道路計画が再開されないようにしていきたいと思っています。
 さて、この靖国通りは江戸時代までさかのぼると、すずらん通りと同じくらいの幅だったようです。しかし、3度の拡幅を経て現在の広さが確保されるようになりました。専修大学前から俎橋(まないたばし)まで直線となったのは明治の末年で、今川小路という小さな道を貫通させて今の靖国通りができています。
 神保町1丁目1番地にある三省堂書店の並びの角から水道橋へ向かう錦華通りは、一度も拡幅が行われていません。猿楽町は、いまだに江戸時代からの姿で存在しているのです。戦前は台風が来るたびに死傷者が出るような崖崩れもあった場所なのですが、今もそのままの形で残っているという大変希少な場所でもあります。
 一方、神保町は元々1680年ごろ、神保長治という方が屋敷を構えたことから、その付近の小路が神保小路と呼ばれ、明治以降その付近一帯の名称として呼ばれるようになりました。この町は1丁目から3丁目まであり、一時期は6丁目までに区画整理する案もあったようですが、いろいろと議論された結果、元のままになったそうです。現在、靖国通りを中心に偶数・奇数で左右に分かれていますが、これは日本郵便制度の基になったフランスに倣ったからのようで、欧米の事柄を取り入れた先進的な場所だったといえます。
 実際、神田の界隈には、かつて江戸の実務を支えていた旗本が多く住んでいました。そのため、彼らが勉強しやすくなるように、徳川家康の侍講だった林道春が上野の忍が岡に建てた弘文堂という塾を湯島に移すことになりました。このことによって、神田は学問の素地となりました。
 九段下の交番の裏には、1855(安政2)年に蕃書調所がつくられました。これは、外国との交渉のために外国の書物を調べるためにつくられた学校です。その後、一ツ橋に開成所という名前となって移転しました。ちょうど現在の学士会館辺りです。そして、開成所は大学南校となり、大学東校と合併して、加賀百万石の屋敷跡に現在の東京大学が設立されました。なお、ご存じの方が少ないようなので補足しますと、その南校時代にウイルソンという先生がいて、その方が野球を日本に紹介したとされています。後楽園にある野球殿堂博物館にはかなり前から、学士会館の跡地が野球発祥の地だという表示もあったようですし、すずらん通りにある靴屋にボールの縫い目を直しにもらいに来たという記録もあったそうです。その裏付けが確認されたので、学士会館に「日本野球発祥の地」記念碑が建てられたという経緯があります。
 しかし、この神田という先進的な地域であっても、われわれが扱っている書物で見ると、少なくとも1900(明治33)年ごろまでは、庶民の生活はほぼ江戸時代のままだったようです。生活が洋風化するのは、日露戦争が終わった1905年以降のことです。江戸の町は、水運で利便が図られていたこともあり、道路の造りが大きく変わっていったのもそれ以降のことです。ただ、近代化による問題も同時に発生していたようです。例えば、現在は駿河台下の真正面が錦華通りとなっています。今は分離帯があるので問題ありませんが、かつてはメインストリートがあまりに近代化し過ぎて、大変な事故が起こるなどの弊害もあったようです。
 このように、江戸時代から地形はだいぶ変わってきています。しかし、例えば白山通りでは拡幅などによって、今後も新しい道ができる予定です。既に小学館ビルなどはセットバックしているので、拡幅化の準備はできています。神保町界隈は「古き良き東京」というイメージを抱かれますが、ただ伝統を守ってきた場所というだけでなく、かつては先進的な場所であり、現在も徐々に変化し続けている町なのです。

|

« 「ガバナー公式訪問」 | トップページ | 「東京オリンピック1年前」 »