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2019年10月 9日 (水)

「バギオ訪問への誘い」

9月12日卓話要旨

鈴木 一行会員
(一財)比国育英会バギオ基金 理事)
 
本日は、来年3月に皆さんをバギオにお誘いするためにお話ししたいと思います。
 バギオのあるフィリピンには、明治時代から多くの日本人が入植し、豊かな生活を送っていました。しかし、その人たちが戦争に巻き込まれ、実際には終戦の9カ月前から、約3000人の日本人または日系の家族がマニラからバギオを目指して逃避行しました。中には、背負っているわが子がうっとうしくなり、死んでしまえばいいと思う人もいたほどで、想像を絶するような状況だったようです。一方、日本人や日系人がいわれのない罪で処刑されていました。カルロス寺岡さんもそうした経験をした一人でした。バギオで暮らしていたカルロスさんの家に、ある日、日本軍がやって来ました。父が病気で亡くなって以来、カルロスさんの家を支えていた兄のビクトルさんが、ゲリラに通じているとして憲兵隊に疑われ、殺されたのです。逆に次兄はフィリピン人から殺されてしまいます。
 戦後も日本人は現地の人たちの憎しみの的になっていました。3000人のうち、日本へ帰った人たちもいますが、フィリピン人のお母さんとその子どもということになると、残念ながら日本へ帰れません。そして、その子どもたちは日系人であると分かってしまうと、現地のフィリピン人から迫害を受けて、まともに生活できる状況ではありませんでした。そこへ救済の手を差し伸べたのが、カトリック修道院のシスター・テレジア・海野さんでした。彼女は還暦を機に、フィリピンの貧しい人々のために余生を捧げるべく、1972年バギオ市の修道院に赴任しました。迫害を恐れて日系人であることを隠し、想像を絶するほどの貧しい生活をしている人々を探し出し、その存在を明らかにして、救済、生活向上、育英に心血を注ぎました。現在、ロータリアンを中心にその活動を支えているのが、(一財)比国育英会バギオ基金です。
 さて、実際に私がバギオへ行ってきたときの様子を交えて日程を紹介します。まず、マニラからバギオへ行くとき、マニラ市内は非常に渋滞するので、警察官が先導してくれました。今までは1日目にバギオまで行っていたのですが、今回の訪問では途中のクラークで宿泊するので、かなり楽だと思います。1日目の懇親夕食会は、参加したメンバーだけで行います。厳しい体験をしたカルロスさんは、ご高齢ですが我々を迎えてくれます。ゆっくりと話され、とても穏やかな方です。
 2日目の午後、バギオ基金の寄付金によっていろいろと設備を整えたバギオ近辺の小学校を訪問します。カルロスさんが寄付金の受け入れ口になっているので、必ず地元の学校に資金が亘ります。夜はアボン会館に奨学生が集まり、一緒に食事をします。彼らは目がとてもきれいです。
 3日目の午前中は、AとBのコースを選択することができます。Bコースは日本人墓地へ行きます。ここにはフィリピンで亡くなった日本人やシスター・テレジア・海野さんのお墓があります。日本人墓地からは1000m以上の高地にあるバギオの住宅街を展望することができます。Aコースは奨学生の家庭をジプニーという乗り物に乗って訪問します。これはとてもいい経験になると思います。バギオを昼ごろに出て、夜にはマニラへ帰ってきて夕食会をします。余興でマニラ芸術大学の学生が民族舞踊やギターの演奏をしてくれます。フィリピン人は全般的に音楽の才能があるのか、非常に質の高いものを見ることができます。
 4日目は市内視察で、飛行機の出発時間までマニラの名所を幾つか巡ります。来年3月の時には行けないと思いますが、今年の2月、私は妻と一緒にスモーキーマウンテンへ行きました。不法投棄によってメタンガスが発生し、いつも煙が出ているのでこのように呼ばれていますが、そこに住み込んで管理している人たちもいて、以前よりは犯罪が起きなくなったそうですが、衝撃的でした。
 以前より楽な日程になったのは、バスでの移動が1日目と2日目の3時間ずつになったことです。3日目は6時間弱ですが、フリーウェイが整備されているので、それほど乗り心地が悪いことはありません。フィリピンは発展途上ですので、まだまだ面白いところが沢山あります。ぜひ一度行って頂きたいと思います。

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「田辺茂一と紀伊國屋書店」

9月12日卓話要旨
(株)紀伊國屋書店 代表取締役会長兼社長 髙井 昌史 氏
(福岡 正人会員紹介)
 
 紀伊國屋書店は1927(昭和2)年、新宿で創業しました。紀伊國屋は元々紀州出身で、江戸に出てきてからは薪炭問屋を営んでいましたが、創業者の田辺茂一が本屋に変えていきました。新宿3丁目で開業した当初は、売り場面積38坪、木造2階建てで、従業員は茂一の他に5名という規模でした。後にギャラリーも併設され、2階の講堂では外国語教室も開かれていました。しかし戦災に遭い、終戦直後の1945(昭和20)年にバラック建ての書店を開業しました。そして翌年には、資本金15万円の会社組織にしました。
 現在地に移ったのは1947年のことです。前川國男氏の設計で、売り場面積150坪、木造2階建てで、戦後書店建築の白眉と評されるモダンな書店でした。そして1964年、東京オリンピックの年に、前回同様、前川氏が設計した現在の紀伊國屋書店のビルが完成しました。2017(平成29)年には東京都選定歴史的建造物にも選定されています。地上9階地下2階、延べ面積3560坪のうち、売り場面積は480坪で、多くのスペースをテナントに貸しています。ビルの中には紀伊国屋ホールを造り、「紀伊國屋寄席」や演劇を公演しています。
 1966年には紀伊国屋演劇賞を創設しました。「新劇の甲子園」「演劇界の登竜門」として定評のある賞に成長し、数々の新劇人や名優がこの賞を取っており、今では最も伝統のある演劇賞になっています。50回を迎えた2015年には、記念の特別賞を制定して盛大にお祝いしました。
 フランスの哲学者ジャン・ボードリヤールが紀伊国屋を訪れたとき、「フランスには書店が出版を兼ねることはあるが、紀伊國屋のように多岐にわたって文化活動を行っている書店はない」と言って驚き、「今後の紀伊國屋書店に強い期待を持っている」と述べました。
 1966年には、哲学者ボーヴォワールの自伝翻訳を紀伊国屋の出版部が手掛けていた関係で、ボーヴォワールがサルトルと共に来社しました。このとき、ボーヴォワールの妹である画家の作品「花」が寄贈されました。茂一は民間人なので勲章などは全くもらいませんでしたが、フランスから文芸勲章騎士章を頂きました。フランス語翻訳をずっと行ってきたことで日仏の文化交流に貢献したことによる受章でした。
 1969年にはサンフランシスコに出店しました。今年7月には50周年記念のセレモニーをして多くの方からお祝いを受けましたが、当時の開店披露パーティーの際にも、日本から多くの著名作家や文人、出版社の社長、さらには銀座のクラブの方たちまで、サンフランシスコにお祝いに行ったそうです。
 茂一は戦前から数多くの雑誌を創刊しました。しかし、出しては潰れ、出しては潰れという状況で、『文芸都市』は船橋聖一、尾崎一雄、梶井基次郎、今日出海、井伏鱒二などのそうそうたる人が編纂に携わりましたが、1年で廃刊しました。その後も『アルト』『紀伊国屋月報』『レセンゾ』『あらくれ』『行動』『文学者』などを創刊し、それぞれ大作家が編纂していましたが、数年で廃刊となりました。こうした出版物は戦前、左翼思想のレッテルを張られたりして当局からにらまれていたためです。
 戦後もいろいろな雑誌を出しました。『文藝時代』『紀伊國屋月報』などはすぐに廃刊しましたが、『紀伊国屋月報』の後継として出版された『机』は1952年から1960年まで続き、その後出版された『風景』は1976年まで続きました。初代編集長は野口富士男でしたが、船橋聖一の逝去を受けて廃刊となりました。
 茂一は作家でもあり、数多くのエッセイも書きました。『六十九の非』は茂一の遺作であり、「昼間は苦虫を噛み潰したような顔をして社長業に励み、夜は銀座、六本木を徘徊する勢力旺盛な老境。69歳にして変身を遂げようとする表題作をはじめ全11篇を収録」と紹介されています。茂一は昭和の粋人であり、お昼に会社に来て昼寝をして、6時ごろに銀座に毎日行っていました。出版界は、茂一の時代が一番良かったかなという気がします。紀伊國屋には社是も社訓も社歌もありません。茂一という自由人の下で働くことができてよかったと思います。
 人生は人との出会い、本との出会いです。書店は劇場、舞台であり、書店員は出会いを演出する演出家です。観客である読者の声援があってリアル書店は生き続けます。早くからホールを備えた「文化の殿堂」をつくり、海外にも展開できたことは、創業者田辺茂一が残してくれた財産ではないかと思っています。

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「帰国報告」

9月5日卓話要旨
青少年派遣学生 川島 由楓 さん
(地区青少年委員 中島 英嗣会員紹介)


 私はフランスのアノネーという町で生活しました。熱気球で有名な町で、至る所で気球を目にしました。自然が豊かで美しく、町の人もとても親切でした。リヨンには週末、友達やホストファミリーと一緒に何度も訪れ、フランスの伝統的な家庭料理を提供するお店「ブション」にも行きました。フランス人は食べることが好きで、週末は2時間ぐらいかけて昼食を取ります。夕食の前にはアペロといって、お酒やお菓子、おつまみを食べ、9時ごろから夕食となるので、食事の時間がとても長く感じました。しかし、この時間こそ家族や友人とのコミュニケーションの場であり、食がみんなをつないでいるのだと思いました。10カ月間、生活して分かったことは、フランス人はオーガニックを選ぶ人が多いということです。有機農産物や有機加工食品のことをBIOといい、スーパーにはBIOの食品が並んでいました。
 私は3軒のホストファミリーにお世話になりました。第1ホストファミリーは空港に着くと温かく迎えてくれ、私のことを本当の娘のようにかわいがってくださいました。クリスマス前にはパリに連れて行っていただき、夢のような時間を過ごしました。ホストファミリーと一緒に祝うクリスマスはとてもすてきな時間で、プレゼントも本当の家族のようにたくさん頂きました。
 第2ホストファミリーには南フランスのマルセイユやグルノーブル、サンテティエンヌへ連れて行っていただきました。すてきなコテージに親戚が集まり、6日間毎日スキーをしました。アルプス山脈でスキーをするなんて全く想像もしていませんでした。山頂からの景色は瞬きするのももったいないくらいの絶景でした。ホストマザーが風邪を引いたとき、私がミネストローネとタルティフレットを作ると、とても喜んでいました。ホストマザーとはすっかり仲良しになり、夕食後は毎日おしゃべりをし、フランス語もたくさん教えてもらいました。
 第3ホストファミリーとは、エクサンプロヴァンスやロクシタン発祥の地マノスクに行きました。一緒におすしやギョーザを作ってコミュニケーションが深まり、仲良くなれました。先祖は気球を発明した人だというホストファザーが運転する気球で、1時間ほどアノネーの町を飛行し、フランスの食文化はこの素晴らしい雄大な自然の豊かさから生み出されたのだと改めて実感しました。
 フランスの学校は休日が多い代わりに1日が長く、9時間目まであり、午後6時に終わることも多々ありました。「芸は身を助ける」といいますが、私が友達に筆で色紙に名前を書いたことがきっかけで、書道ブームが起きました。授業の合間にもクラスメートから「書いて」と頼まれ、書道をきっかけに友達の輪を広げることができました。
 私は経済系の大学を志望する人のクラスにいて、他の生徒と同様、日本でいうセンター試験のようなものを年度末に受験しました。みんなの将来が懸かっているので迷惑はかけられないと思って、私も頑張りました。私たちは3人グループで15分ほどプレゼンし、チームで一つのプロジェクトを成功させるにはどうしたらいいかを学びました。
 また、担任の先生に、日本とフランスの違いについてプレゼンをしてほしいと前日に頼まれ、それをフランス語で行うことにしたのですが、たくさんのクラスメートが真剣に寄り添ってくれました。その凝縮された時間は貴重な思い出となり、持つべきものは友だ、自分の頑張り次第で変われるということを学びました。
 4月の初め、さまざまなアーティストが集まって、町の人に作品を買ってもらい、そのお金の一部を病気の子どもに寄付するチャリティイベントがありました。私は浴衣を着て書道パフォーマンスをし、1作品15~40ユーロで15作品ほど買ってもらいました。感謝の気持ちを込めて全額寄付しましたが、このイベントは異国の地で無力感を抱いていた私に勇気とやる気を与えてくれました。
 私のホストロータリークラブには、私を含め3人の留学生がいました。地区には60人ほどのインバウンズがいました。日本人は私だけだったので最初はとても不安でしたが、下手でも伝えたいという気持ちがあれば仲良くなれることを知りました。今後はもっと多くの人とコミュニケーションを積極的にとり、自分の世界を広げていきたいと思います。今後はこの経験を生かして社会貢献を行い、恩返しをしたいと思います。

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