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2019年10月 9日 (水)

「田辺茂一と紀伊國屋書店」

9月12日卓話要旨
(株)紀伊國屋書店 代表取締役会長兼社長 髙井 昌史 氏
(福岡 正人会員紹介)
 
 紀伊國屋書店は1927(昭和2)年、新宿で創業しました。紀伊國屋は元々紀州出身で、江戸に出てきてからは薪炭問屋を営んでいましたが、創業者の田辺茂一が本屋に変えていきました。新宿3丁目で開業した当初は、売り場面積38坪、木造2階建てで、従業員は茂一の他に5名という規模でした。後にギャラリーも併設され、2階の講堂では外国語教室も開かれていました。しかし戦災に遭い、終戦直後の1945(昭和20)年にバラック建ての書店を開業しました。そして翌年には、資本金15万円の会社組織にしました。
 現在地に移ったのは1947年のことです。前川國男氏の設計で、売り場面積150坪、木造2階建てで、戦後書店建築の白眉と評されるモダンな書店でした。そして1964年、東京オリンピックの年に、前回同様、前川氏が設計した現在の紀伊國屋書店のビルが完成しました。2017(平成29)年には東京都選定歴史的建造物にも選定されています。地上9階地下2階、延べ面積3560坪のうち、売り場面積は480坪で、多くのスペースをテナントに貸しています。ビルの中には紀伊国屋ホールを造り、「紀伊國屋寄席」や演劇を公演しています。
 1966年には紀伊国屋演劇賞を創設しました。「新劇の甲子園」「演劇界の登竜門」として定評のある賞に成長し、数々の新劇人や名優がこの賞を取っており、今では最も伝統のある演劇賞になっています。50回を迎えた2015年には、記念の特別賞を制定して盛大にお祝いしました。
 フランスの哲学者ジャン・ボードリヤールが紀伊国屋を訪れたとき、「フランスには書店が出版を兼ねることはあるが、紀伊國屋のように多岐にわたって文化活動を行っている書店はない」と言って驚き、「今後の紀伊國屋書店に強い期待を持っている」と述べました。
 1966年には、哲学者ボーヴォワールの自伝翻訳を紀伊国屋の出版部が手掛けていた関係で、ボーヴォワールがサルトルと共に来社しました。このとき、ボーヴォワールの妹である画家の作品「花」が寄贈されました。茂一は民間人なので勲章などは全くもらいませんでしたが、フランスから文芸勲章騎士章を頂きました。フランス語翻訳をずっと行ってきたことで日仏の文化交流に貢献したことによる受章でした。
 1969年にはサンフランシスコに出店しました。今年7月には50周年記念のセレモニーをして多くの方からお祝いを受けましたが、当時の開店披露パーティーの際にも、日本から多くの著名作家や文人、出版社の社長、さらには銀座のクラブの方たちまで、サンフランシスコにお祝いに行ったそうです。
 茂一は戦前から数多くの雑誌を創刊しました。しかし、出しては潰れ、出しては潰れという状況で、『文芸都市』は船橋聖一、尾崎一雄、梶井基次郎、今日出海、井伏鱒二などのそうそうたる人が編纂に携わりましたが、1年で廃刊しました。その後も『アルト』『紀伊国屋月報』『レセンゾ』『あらくれ』『行動』『文学者』などを創刊し、それぞれ大作家が編纂していましたが、数年で廃刊となりました。こうした出版物は戦前、左翼思想のレッテルを張られたりして当局からにらまれていたためです。
 戦後もいろいろな雑誌を出しました。『文藝時代』『紀伊國屋月報』などはすぐに廃刊しましたが、『紀伊国屋月報』の後継として出版された『机』は1952年から1960年まで続き、その後出版された『風景』は1976年まで続きました。初代編集長は野口富士男でしたが、船橋聖一の逝去を受けて廃刊となりました。
 茂一は作家でもあり、数多くのエッセイも書きました。『六十九の非』は茂一の遺作であり、「昼間は苦虫を噛み潰したような顔をして社長業に励み、夜は銀座、六本木を徘徊する勢力旺盛な老境。69歳にして変身を遂げようとする表題作をはじめ全11篇を収録」と紹介されています。茂一は昭和の粋人であり、お昼に会社に来て昼寝をして、6時ごろに銀座に毎日行っていました。出版界は、茂一の時代が一番良かったかなという気がします。紀伊國屋には社是も社訓も社歌もありません。茂一という自由人の下で働くことができてよかったと思います。
 人生は人との出会い、本との出会いです。書店は劇場、舞台であり、書店員は出会いを演出する演出家です。観客である読者の声援があってリアル書店は生き続けます。早くからホールを備えた「文化の殿堂」をつくり、海外にも展開できたことは、創業者田辺茂一が残してくれた財産ではないかと思っています。

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