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2019年11月12日 (火)

「児童養護施設18歳の巣立ち─すべてに意味があり、みんな大事な存在」

10月31日卓話要旨

 NPO法人プラネットカナール理事長 鈴木 邦明氏                                    
 ACHAプロジェクト         山本 昌子氏
(金井 一成会員紹介)

20191031

私は生後4か月から2歳までを乳児院、2歳から18歳までを児童養護施設、18歳から19歳までを自立援助ホームで育ちました。育児放棄で、あと何時間か遅くなっていたら死んでいたという段階で保護されたそうです。

私の児童養護施設の生活は「幸せ」という言葉に尽きます。傍にいてくれた人達の笑顔、夜寝る前の絵本の時間、みんなで騒がしく囲む食卓。職員の方たちは、いつでも真剣に考え向き合ってくれました。血の繋がりはなくても本当の家族だと感じられました。

それが、卒園を機に一変します。保育専門学校受験をして合格したのですが、学費を出してくれるはずの父がNOと言ってきたので、合格はキャンセルして自立援助ホームに住むことになりました。朝から夜まで必死に働き続ける日々、バイトの行きと帰りは毎日泣きながら、1年間で100万円を貯めて夜間の保育専門学校に入学しました。しかし、同世代の子供達がやりたい事をしていても我慢して頑張ってきたのに、入学金を払っただけでそのお金が一瞬で消えてなくなってしまい、とてもショックでした。普通の親御さんとのような生活は私にはどんなに望んでも手に入らなかったのです。そして、押し寄せる孤独感、施設での自分が全てだったのに「自分には帰る場所がどこにもない」

自分の過去に会いに自分の子どもの頃を知っている人を訪ね、そこで、私の今までの人生には沢山の愛があったと気づき、「すべてに意味があり、

みんな大事な存在」ということに気づいたのです。

また、専門学校のあちゃさんという先輩が、後撮り撮影という形で振袖を着せてくださったことが、児童養護施設出身の子達に振袖写真撮影で「生まれてきてくれてありがとう」を伝えるACHAプロジェクトにつながりました。現在プロジェクトの活動は4年目になり、これまでに約100名の撮影を行いました。
最後になりますが、プラネットカナールの活動により
多くの児童養護施設出身者の若者たちの生活が潤い助けられています。児童養護施設出身者にとって支援があることは当たり前ではなく、奇跡のようなことです。皆さんどうか引き続き応援団でいて下さい。よろしくお願い致します。

【活動報告】
NPO法人プラネットカナール
理事長  鈴木 邦明 氏

私たちは現在16施設を支援しており、お蔭様で、今年13施設35名の卒園生の希望者全員に主要な家電を贈ることができ、それ以外にも274アイテムを贈呈しました。贈呈式は、不安な中、嬉しそうな卒園生たちの微笑みで溢れていました。応援している人たちが沢山いるということが力になっていると確信しています。引き続きご支援、宜しくお願いいたします。

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「米山月間に因んで」

10月3日卓話要旨
「米山月間に因んで」
米山奨学生 田 勝圭さん
(髙柳 憲嗣会員紹介)
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 卓話の前に、簡単な自己紹介をさせて頂きます。私は今年27歳で、出身はソウル生まれ、ソウル育ちのジョン・スンギュといいます。2012年から2014年まで兵役に就いた後、2017年4月に明治大学に入学し、今年4月に米山奨学生に選ばれました。今日の卓話に関しては予め取り組んでおり、二つの理由に従ってテーマを決めました。まず、米山記念奨学会の理念に基づいているためです。そして、私自身が外国人として客観的に比較できる素材であるからです。異文化理解について語る前に、歴史の事例を鑑みていきましょう。結論から言うと、異文化理解の誤りは、大きな結果をもたらします。例えば、豊臣秀吉による朝鮮出兵では、小西行長ら率いる日本軍は朝鮮半島に上陸してわずか1週間で朝鮮中央部の漢陽(ハンヤン、現在のソウル)を占領しました。日本軍の快進撃を前に朝鮮政府は、「小西軍の食糧は1カ月分しかないから、1カ月間取り囲めば勝てる」と判断していたのです。しかし1カ月後、朝鮮軍は敗北しました。これは日本軍の食糧の量を読み間違えたからではありません。敗因は、当時の韓国人の食事量が、現代の韓国人の2倍、当時の日本人の3倍にも上ったからです。つまり、朝鮮政府が1カ月分しかないと判断していた食糧は、実際は日本軍にとって3カ月分もあったのです。もしも当時の朝鮮軍が日本文化をきちんと理解していれば、結果は変わっていたでしょう。
さて本題ではありますが、真の異文化理解とは何でしょう。まず、異文化理解とは、複数の文化があるということを前提に、自分の文化とは異なる文化を理解して解釈しようと努力することをいいます。それゆえに、文化相対主義の観点、言い換えれば、他者への理解と容認する態度が必要になります。ただ、注意しておきたいのは、全てを認めてしまうと倫理的な問題が発生してしまうことです。アフリカでは死体を食べると死者の魂が自分の体に宿ると信じられています。或いは、女性や児童への虐待、身体棄損などの風習や文化を持つ地域もあります。そのため、全てを容認するのではなく、部分的な相対主義観点が求められます。
 最後に、異文化理解に関する私の経験を取り上げさせて頂きます。元々私は、日本と韓国をつなぐ懸け橋になりたいという目標を設定し、留学を決めました。とはいえ、私は日本に来て多くの試行錯誤を経験してきました。日本に来た当初、私自身は馴染めない外国人、頑固な韓国人という色眼鏡で見られていると感じていました。一方、外国人だから差別されていたのではなく、私自身の勘違いのせいだったと言わざるを得ません。そのような経験を含め、幾つか指摘されたことがありました。最初は早口に注意することでした。自分ではそのつもりはありませんでしたが、早口だという指摘をよく受け、指摘は話し方だけでなく、話法にもポイントがありました。例えば喫茶店での支払いで、以前おごってもらったから今度は自分が払おうと思って「俺が出すからいいよ」と言った時、後日友人から「なぜ怒っているのだろうと思った。」という素直なフィードバックも頂きました。加えて日本社会での相手の話を聞いて察する文化が韓国と真逆だと感じました。まずは相手の話を聞いて、反論する前にもう一度相手の立場で考えるのです。韓国でも相手の言い分を察しないわけではありませんが、納得できないところがあれば、直接相手に言います。アルバイト先の先輩に「こっちの方が効率的ではないですか」と話すと、「日本人はまず相手の話を聞き、それを聞いた上で相手の立場で考える。それが日本社会だ。」と言われました。それから、語彙と表現の使い方とニュアンス的理解を深めることも大事だと考えざるを得ませんでした。例として、私は韓国が早急に経済発展してきたことを「まぶしい経済成長」という言い方をしましたが、日本では「輝かしい経済成長」という表現が正しいのです。このニュアンスの違いが、私には非常に難しいのです。対策として新聞を読んだり友人に聞いたりして、語彙力を磨いています。
 以上のように、話し方や話法、察する能力、語彙やニュアンスへの理解を身に付ける努力を積み重ねても、日本人と触れ合う経験がなければ意味がありません。私の留学はまだ2年に過ぎませんが、実際に異文化理解を実践していけば、日本と韓国だけでなく、世界各国どこでも理解し合うことができると確信しました。したがって、これからも異文化理解をより深め、切磋琢磨していきたいと思っています。

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「明治東京の西郷隆盛~その実像と生活」

9月26日卓話要旨
歴史研究家 伊東 成郎 氏
(角田 実会員紹介)
西郷隆盛は明治4年(1871年)の夏ごろから、日本橋の小網町と蛎殻町をまたぐ広い敷地に住み、「小網町の西郷さん」と呼ばれていました。西郷は4月に鹿児島から上京し、新政府の重鎮になりましたが、2年後の明治6年10月、征韓論を巡る対立で辞職し、鹿児島へ帰ります。それまでの間、人形町の水天宮近くで暮らしていたのです。
 下男の永田熊吉の証言によると、西郷の屋敷は米穀取引所から第五国立銀行の一帯で2633坪ありました。そのすぐそばで谷崎潤一郎が明治19年に生まれています。西郷家では、厄介な洗濯物は老舗の白木屋(1662年創業の呉服店)にお願いしました。また、当時は新橋演舞場辺りにあった精養軒の洋食が好きで、取り寄せていました。精養軒は上野に移転しましたが、ここで西郷の銅像と一緒になったのは全くの偶然です。西郷像は高村光雲の作で、当人の決断によって戦禍を免れた東京を高台から見渡せるよう、彰義隊との上野戦争にちなんだ上野の山に明治31年建てられました。大好きなお店の近くに本人の銅像が永久に建っているわけです。大隈重信の家に仕えた使用人の回想によると、西郷は人形町から現在の皇居まで毎日歩いて通っていました。くつわの紋(薩摩の紋)が付いた薄色の着物を着て、小倉(厚めの木綿)の袴をはき、大小を差して、草履を履いていました。熊吉がいつも白木の弁当箱を持ってお供をしていたそうです。
 西郷には多くのエピソードがあります。妻の糸の証言によると、西郷は塩辛いものが好きでした。肥満体にとっては大敵です。糸はハラハラしながら西郷の食生活を見ていたかもしれません。ウナギも大好きでした。西郷の孫で法務大臣まで務めた吉之助によると、蒲焼き屋でウナギを注文すると、口に合わなかったらしく、犬に食べさせ、代金を煙草盆の下に入れて帰っていったそうです。今の感覚ではもったいない話ですが、それも西郷の愛情表現だったのかもしれません。素直にお金を払えばいいのにそうしないところも西郷の美徳だったのでしょう。
 西郷はとても立派な体格でした。吉之助の回想によると、身長は5尺9寸(177cm)、体重は29貫(116kg)でした。明治4年に西郷を自宅に招いた土佐の砂糖問屋店主の記録によれば、長袖のシャツを着ると袖の根元が腕の途中でつっかえてしまったそうです。
 東京で暮らしていた頃、西郷はよく狩猟に出掛けました。というのも、肥満で塩分も取り過ぎの西郷は、脳卒中の危険を自覚していました。それを案じた明治天皇はドイツ人医師を使わします。西郷は健康指導を受けて、渋谷にあった弟・従道の別宅に一時移り、野外運動として大好きなウサギ狩りをしていたのです。弟の屋敷は現在の渋谷駅前の金王八幡宮辺りにあり、西郷は数カ月、渋谷や青山で連日のように狩りをしていました。明治32年に渋谷で生まれた私の祖母が「道玄坂でキツネの親子を見た」と言っていたことが思い出されます。西郷は翌年、鹿児島に帰り、ウサギ狩りの趣味は一層深くなりました。
 また、西郷が犬好きだったことは有名です。吉之助の話では、西郷は何の欲もない人でしたが、犬に対する欲だけはすこぶる強かったそうです。祇園の芸妓の話では、西郷は新撰組などを警戒する幕末の京都の宴会にも犬を連れてきたそうです。そして、小網町の屋敷にも犬を5~6匹飼い、あだ名も付けてかわいがっていたようです。
 熊吉は、隆盛の死から25年後の明治35年に亡くなりました。従道は現在の代官山に屋敷を構え、ここに晩年の熊吉を家族ともども住まわせ、最期をみとりました。亡くなると盛大な葬儀を挙行し、参列者に向かって「私のもう一人の兄が亡くなりました」と涙を流してあいさつしたそうです。
 西郷から1年にわたって生活の援助を受けていたのが、坂本龍馬の未亡人、お龍でした。お龍は美人でしたが、とっつきが悪く、龍馬の死後、仲間から遠ざけられて辛酸をなめました。幕末にお龍と龍馬は西郷に大変世話になり、鹿児島の温泉に新婚旅行に行ったときは西郷が全般をサポートしました。そのような大恩人を今度は東京で頼ったのです。しかし、1年余りで西郷との別れが訪れます。明治32年の報知新聞によると、2人が決別したのは鎧橋上だったそうです。西郷は写真嫌いだったので写真は残っていませんが、お龍もそんな西郷に誓って、自分も生涯、写真は撮るまいと決めたそうです。本や雑誌などで、若いときのお龍とされる写真は別人と見ていいでしょう。

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