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2019年11月12日 (火)

「明治東京の西郷隆盛~その実像と生活」

9月26日卓話要旨
歴史研究家 伊東 成郎 氏
(角田 実会員紹介)
西郷隆盛は明治4年(1871年)の夏ごろから、日本橋の小網町と蛎殻町をまたぐ広い敷地に住み、「小網町の西郷さん」と呼ばれていました。西郷は4月に鹿児島から上京し、新政府の重鎮になりましたが、2年後の明治6年10月、征韓論を巡る対立で辞職し、鹿児島へ帰ります。それまでの間、人形町の水天宮近くで暮らしていたのです。
 下男の永田熊吉の証言によると、西郷の屋敷は米穀取引所から第五国立銀行の一帯で2633坪ありました。そのすぐそばで谷崎潤一郎が明治19年に生まれています。西郷家では、厄介な洗濯物は老舗の白木屋(1662年創業の呉服店)にお願いしました。また、当時は新橋演舞場辺りにあった精養軒の洋食が好きで、取り寄せていました。精養軒は上野に移転しましたが、ここで西郷の銅像と一緒になったのは全くの偶然です。西郷像は高村光雲の作で、当人の決断によって戦禍を免れた東京を高台から見渡せるよう、彰義隊との上野戦争にちなんだ上野の山に明治31年建てられました。大好きなお店の近くに本人の銅像が永久に建っているわけです。大隈重信の家に仕えた使用人の回想によると、西郷は人形町から現在の皇居まで毎日歩いて通っていました。くつわの紋(薩摩の紋)が付いた薄色の着物を着て、小倉(厚めの木綿)の袴をはき、大小を差して、草履を履いていました。熊吉がいつも白木の弁当箱を持ってお供をしていたそうです。
 西郷には多くのエピソードがあります。妻の糸の証言によると、西郷は塩辛いものが好きでした。肥満体にとっては大敵です。糸はハラハラしながら西郷の食生活を見ていたかもしれません。ウナギも大好きでした。西郷の孫で法務大臣まで務めた吉之助によると、蒲焼き屋でウナギを注文すると、口に合わなかったらしく、犬に食べさせ、代金を煙草盆の下に入れて帰っていったそうです。今の感覚ではもったいない話ですが、それも西郷の愛情表現だったのかもしれません。素直にお金を払えばいいのにそうしないところも西郷の美徳だったのでしょう。
 西郷はとても立派な体格でした。吉之助の回想によると、身長は5尺9寸(177cm)、体重は29貫(116kg)でした。明治4年に西郷を自宅に招いた土佐の砂糖問屋店主の記録によれば、長袖のシャツを着ると袖の根元が腕の途中でつっかえてしまったそうです。
 東京で暮らしていた頃、西郷はよく狩猟に出掛けました。というのも、肥満で塩分も取り過ぎの西郷は、脳卒中の危険を自覚していました。それを案じた明治天皇はドイツ人医師を使わします。西郷は健康指導を受けて、渋谷にあった弟・従道の別宅に一時移り、野外運動として大好きなウサギ狩りをしていたのです。弟の屋敷は現在の渋谷駅前の金王八幡宮辺りにあり、西郷は数カ月、渋谷や青山で連日のように狩りをしていました。明治32年に渋谷で生まれた私の祖母が「道玄坂でキツネの親子を見た」と言っていたことが思い出されます。西郷は翌年、鹿児島に帰り、ウサギ狩りの趣味は一層深くなりました。
 また、西郷が犬好きだったことは有名です。吉之助の話では、西郷は何の欲もない人でしたが、犬に対する欲だけはすこぶる強かったそうです。祇園の芸妓の話では、西郷は新撰組などを警戒する幕末の京都の宴会にも犬を連れてきたそうです。そして、小網町の屋敷にも犬を5~6匹飼い、あだ名も付けてかわいがっていたようです。
 熊吉は、隆盛の死から25年後の明治35年に亡くなりました。従道は現在の代官山に屋敷を構え、ここに晩年の熊吉を家族ともども住まわせ、最期をみとりました。亡くなると盛大な葬儀を挙行し、参列者に向かって「私のもう一人の兄が亡くなりました」と涙を流してあいさつしたそうです。
 西郷から1年にわたって生活の援助を受けていたのが、坂本龍馬の未亡人、お龍でした。お龍は美人でしたが、とっつきが悪く、龍馬の死後、仲間から遠ざけられて辛酸をなめました。幕末にお龍と龍馬は西郷に大変世話になり、鹿児島の温泉に新婚旅行に行ったときは西郷が全般をサポートしました。そのような大恩人を今度は東京で頼ったのです。しかし、1年余りで西郷との別れが訪れます。明治32年の報知新聞によると、2人が決別したのは鎧橋上だったそうです。西郷は写真嫌いだったので写真は残っていませんが、お龍もそんな西郷に誓って、自分も生涯、写真は撮るまいと決めたそうです。本や雑誌などで、若いときのお龍とされる写真は別人と見ていいでしょう。

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