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2020年3月31日 (火)

「2050年の社会保障」

2月6日卓話要旨
株式会社医薬経済社 編集長 森下 正章 氏
(荻原 年会員紹介)
202026
 2050年というと随分先の話ではないかと思われるでしょう。皆さんのお孫さん世代がちょうど2050年に働き盛りになると思います。その頃、特に医療を中心にどうなっているのか、孫にどう残していくのかという問題意識を、頭の片隅に入れていただければと思います。
 日本経済は今、そんなに豊かではありません。2011年の世界・収入不平等指数(ジニ係数)ランキングによると、日本は37.9%で、141国中73位と世界で真ん中ぐらいの順位でした。そもそもジニ係数40%以上は社会騒乱の警戒ライン、60%以上は危険ラインといわれています。2014年の日本は、所得再配分後は37.6%でしたが、再配分前は57.0%と結構危険ラインでした。税金を徴収して分配していればそんなに心配ないと厚生労働省は言いますが、そもそも分配前に一人一人の所得にかなり差が生じています。これが後々大きな影響が出るのではないかと内々では議論されているのです。
 2050年というのはどういう世界かというと、第2次ベビーブーム世代(昭和47~49年生まれ)が73~75歳になり、日本が最も高齢化になる時代です。つまり、本当の意味で深刻な時代が来るのが2050年なのです。
 一方で、結婚率がどんどん低くなっています。結婚できるだけの収入がないため結婚しないという人が約2割もいます。このままいくと、最終的に誰からも保障されない世界が来てしまいます。老後でなくても現時点で生活が厳しいのですから、日々の生活費もままならなくなる可能性も高いのです。そうした人を支えられる制度は生活保護しかありません。
 しかし、2050年時点で最も深刻になるのが医療保険と介護保険です。年金は2050年でも意外と持つと予測されていますが、医療保険と介護保険は、働いた人が所得に応じて保険料を払うシステムです。また、いつ大病を患う人が続出するかといった不確実性が高過ぎる制度でもあります。そして、医療はどんどん高度になっていく分、医療費も高額になっていきます。だからといって医療保険を使わせないとなると基本的人権を侵害してしまうので、なるべく使わないで健康でいてくださいとお願いしていくしかないわけです。
 しかし、2050年には生活保護受給者は4割に上ると財務省や厚生省が予測しています。生活保護受給者は医療保険料の適用除外となり、医療費が支給されます。つまり、医療費を負担してくれる人がますます減っていくのです。少子高齢化の中、そして生活保護受給者が増加する中で支えていくことは、どれだけ大変なことかお分かりいただけたでしょう。
 今の安倍政権が2021年に退陣した場合、後任は恐らく岸田文雄さんか石破茂さんになるでしょう。岸田さんの社会保障路線はいまいち見えてきませんが、基本的に安倍政権を踏襲する形になると思います。一方、石破さんが政権を取ると、恐らく消費税再増税を検討するといわれています。
 ところで、消費税自体は社会保障の財源になっていると思われている方が多いでしょうが、医療費に回っているのは消費増税分の1%あるかないかです。そのほとんどは赤字国債の返済と年金に当てられていて、医療費と介護費には回っていません。結局、社会保障を必要とするなら、保険料を上げなければいけないのです。不確実性の高い医療制度を運営するには、その方が実は運営しやすいという面もあります。しかし、結局は収入を上げていかないとつぶれてしまうことになるでしょう。
 年始に政府が予算編成をしていましたが、政府の決算書を見ると予算と決算がまるで違います。今どこにお金が行っているのか、実は解明されていないところが多いのです。実際に医療費や介護費がどれくらいかかっているのか、誰も分かっていません。結構恐ろしいことをしている国ではあるので、2050年に向けてそういうものも見ていただけると、安心して暮らせるかなと思います。
 日本が目指す姿は、そこそこ所得があって、税金や保険料をそこそこ払える世界なのかもしれません。ですが、10年先、20年先と先送りしている課題が、孫の世代に山積みとなって現れる時代になるわけです。一方、この2050年を乗り切れば、根本的な問題は解決するともいわれています。ですので、あと30年、少しでも良い未来を子や孫たちに残していくために、今から皆さまで頑張っていければと思います。

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「マンドリン演奏でみんなを元気に─慰問活動のお話と演奏」

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1月30日卓話要旨
マンドリンアンサンブル志木会 代表 加藤 裕樹 氏
(荻原 弘幸会員紹介)
 
 われわれマンドリンアンサンブル志木会は、メンバー全員が慶應義塾志木高校マンドリンクラブのOBです。私が高校に入った頃は音楽系クラブが少なかったのですが、昭和39年のちょうど東京オリンピックの年に、数人の同期でマンドリンクラブを創立しました。
 高校を卒業し、ほとんどのメンバーは楽器から離れていましたが、4年ほど前に母校でマンドリンクラブの第50回記念定期演奏会が催されました。そのときに、高校生だけでなくOBもステージに上らないかという話が出て、創成期のメンバーだけで指のさび落としを始めました。そして、演奏会が終わっても久しぶりの楽しい緊張感が忘れられず、そのままアンサンブル結成へと至ったのです。
 われわれが使う楽器は、マンドリン、マンドラ、ギターの3種類です。中でもマンドリンはファーストとセカンドに分かれて異なるメロディを演奏しているので、全部で四つのパートでの演奏となります。
 ご存じのことかと思いますが、数え年70歳を「古希」といいます。この言葉は杜甫の詩「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」から来ています。しかし、人生100年時代を迎えた今、もはや70歳は古来稀な存在ではありません。それよりも、老人としての入学式に当たる節目の年代になったのだと思います。従って、当会総勢10名の「アラ古希」メンバーは、これから世のため、人のため、役に立っていくべき役割を担い、そのスタート地点にいるのだと認識しています。
 われわれは楽器演奏の経験を生かし、老人ホームを訪問して童謡や歌謡曲、演歌などを演奏する活動を続けており、ホームの皆さんに楽しんでいただいています。この活動はアンサンブル結成後、練習を続けていたときに、「誰かに聞いてもらう機会があるといいよね」とメンバーで話していたら、老人ホームで慰問演奏というお話があったので、始めたのが最初でした。
 老人ホームで演奏する曲目はいろいろな要素で決めているのですが、選定には非常に気を使っています。一番重要なのは、みんなの演奏技術の身の丈に合った曲であることです。われわれのレパートリーは50曲ほどありますが、その中でも上手に弾ける曲もあれば、練習しても微妙な曲もあります。どうしてもうまくいかないときは、その曲の出番はどんどん少なくなってしまいます。
 最初はホーム入居者の年齢を考慮し、古い曲の方が喜ばれるだろうと考えて演奏していましたが、最近は戦前の歌は知らないと言われる方が増え、「君といつまでも」「昴」など昭和後期や平成の唄が喜ばれています。他にもシーズンに合わせて曲を選んだり、水害の直後には川にまつわる曲を避けたり、「千の風になって」のような歌詞のものは避けるといった配慮もしています。
 また「真珠とりの唄」のように、元々はオペラの曲だったものをタンゴ調にアレンジしてヒットした曲など、リズムのいい曲もよく演奏します。お年を召した方は体の動きが自由ではないことも多いですが、懐メロやリズムのいい曲には体を揺らしながら楽しんでくださる方も多くいらっしゃいます。その他の曲でも、最初はどこを向いているか分からなかった方も、歌ったり聞いたりしているうちにだんだんわれわれの方をしっかり見るようになったり、手拍子するようになったり、明らかに意識が上向いてくるという実感があります。そういった反応を見ると、やはり音楽を聴くことで元気になるのだなと、われわれにとっても励みになっています。
 高齢者の方に歌っていただくのが本当の目的なのですが、この活動はわれわれ自身のためにもなっています。まず、遠くなってきた目で楽譜を追い掛け、メンバーの奏でる音を聞きながら指を早く動かすことは老化防止に役立っています。それから、50年前には同窓生でしたが、その後は全く異なる道を歩んできた10人が心を合わせてワンチームとして合奏するので、精神的な老化防止にもなっています。
 近いうちにわれわれも居住者側になって、聞いたり歌ったりすることになるでしょう。しかしそれまでの間は演奏者側に座って、皆さまに楽しんでいただき、元気を差し上げ、そしてわれわれもそのパワーを頂戴していけたらと思いながら活動を続けています。もしもこの地域の老人ホームからご要請がありましたら

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「聴竹居 藤井厚二の木造モダニズム建築─人と地域を未来へつなぐ─」

1月23日卓話要旨
一般社団法人聴竹居倶楽部 代表理事 松隈 章 氏
(児玉 正孝会員紹介)
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 国の重要文化財に指定されている「聴竹居(ちょうちくきょ)」という建物は、建築家藤井厚二の自邸として建てられました。藤井は1888年に福山で生まれ、東京帝国大学を出た後に竹中工務店に入り、竹中工務店設計部の基礎を築いた人物です。6年で竹中を辞めた後、欧米視察に9カ月間出掛け、京都帝国大学建築学科の教授になりました。その後、自身五つ目の住居となる聴竹居を1928年に建てたのですが、その10年後49歳で、病気で亡くなりました。
 藤井は、自らが確立した環境工学を生かし、真に日本の気候風土に適合した住宅を実現しようとした建築家の一人です。日本では欧米に負けないように近代国家の様式を取り入れるため、明治期から洋館を取り入れていましたが、暮らしにくいからと和館も建て、和館と洋館をくっつけた和洋折衷の建物がよく造られました。それが藤井の目には、欧米の模倣と日本の伝統がただ雑然と混交している状態に映ったのです。藤井の代表的著作である環境工学の理論書を『日本の住宅』では、和風と洋風を10項目について比較しています。
 「気候」という項目では、日本の夏は好適な温度と隔たりがあるため、日本の住宅は夏季における設備の研究を主眼としなければならないと考え、直射日光による外気の熱を屋内に伝達させてはいけない、通風を良くしなければならないということを導き出しています。
 「設備」の項目では、間取りや壁、屋根、窓、鉄筋コンクリート住宅について触れています。間取りについては、欧米のような高気密のものは良くなく、換気が大事であると説いています。我が国伝来の住宅では、ふすまや障子で囲われて一つの部屋になり得る形にして風通しを良くしてきたので、それを生かさなければならないと書いています。壁については、実験で性能を確かめた上で、土蔵壁が最も断熱性に優れているのでこれを使うべきだと結論付けています。屋根については、排水だけでなく屋内の気候を調整するために重要だと書いていますし、窓については、雨戸は不要だが、紙障子を通したぼんやりとした明かりが日本人の心に合うので、紙障子が大事だと書いています。それから、鉄筋コンクリート住宅については、藤井は関東大震災の後、コンクリートが大事だとして幾つか取り組んだのですが、当時は調湿性や遮音性に問題があって採用には否定的見解を示しています。「夏の設備」の項目では、やはり換気や通風を利用した室内環境の維持について詳述しています。その内容を四つ目の自邸で実験し、五つ目の自邸「聴竹居」で改良した上で適用しています。「趣味」という項目では、「住宅は単純に雨風を防いだり耐火・耐震するだけでなく、住人に慰安を与えて愉快なものにしなければいけない」と説いています。さらに、自然に反抗してはならないと説き、今でいう景観についても触れています。
 藤井の行いを振り返ると、日本の気候風土や自然環境を環境工学から解明し、設計に活用して日本の住宅に残し、さらに聴竹居で実現しました。和洋折衷ではなく、洋と和を統合した進化を行い、日本住宅を近代的なものに変えようとしたのです。
 私は阪神・淡路大震災をきっかけに、聴竹居の保存活動をするようになりました。震災で半壊してしまった、明治を代表する建築家武田五一の「芝川邸」の移築をきっかけに藤井を知ったのです。芝川邸同様、貴重な住宅である聴竹居の保存の一環として、竹中工務店有志で実測調査を行い、実測図集も発行しました。しかし当時は無指定の個人邸でしかありませんでした。
 知られるようになったのはNHKの「美の壺」で取り上げられたのがきっかけでした。放送は2010年でしたが2013年のスペシャル版をご覧になった当時の天皇、皇后両陛下が興味を持たれ、その年の6月に行幸啓が実現しました。無指定の個人邸の行幸啓は恐らく唯一でしょう。聴竹居にとって非常に運命的なことでした。
 聴竹居は、2000年に住人が亡くなられて以降、2008~2016年は私が個人的に借りて、近隣住人のボランティアによる聴竹居倶楽部という任意団体が公開していましたが、2016年末以降は竹中工務店が所有し、一般社団に格上げした聴竹居倶楽部が公開を続けています。国重文に指定された今、年間1万人強の人たちが各地から訪れていますので、皆さまもぜひ現地に来ていただけたらと思います。

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「地区委員会活動報告」

1月16日卓話要旨
 地区補助金委員会委員長 浜田 章男会員

  新年早々にロータリー財団のお話で眠くなる方は、後半の寄付のお願いの時だけは起きて聞いて下さいね。
 ロータリー財団の活動は、ポリオ根絶・ロータリー平和フェローシップ・補助金の3つです。「財団のシステムはややこしい」とおっしゃらないで、この3つだけだと覚えて下さい。年間の寄付総額は約4億ドルです。世界の120万人が協力するとこのような大きな金額となります。支出総額は約3億ドル。全体の92%が活動とその運営費に使われていますので、十分評価できると思います。
米国の慈善団体の格付けを行う機関のチャリティナビゲーターから12年連続で4つ星評価を受けていますので、寄付金が効果的に活用されているとお墨付きをもらっていると云えます。ウエブサイトで会計報告を閲覧できて隠さないオープンな運営となっています。 
ポリオはいわゆる小児麻痺で、幼い時に感染すると大人になっても意欲が出ないなど弊害があり、感染の連鎖を断ち切ることが必要です。ロータリーは1985年からポリオの根絶を目指し18億ドル以上の資金を投入してきました。2018年には3ヶ国33人だけになり、もう少しですが、ワクチン投与を怠ればまた流行してしまいます。そもそもこの活動を財団の事業とさせたのは日本人、東京麹町RCの山田 彝(ツネ)さんと峰 英二さんでした。命を懸けて献身された偉大な先輩の存在をいつまでも記憶にとどめておきたいものです。当地区の目標は一人30ドルですのでご協力をお願いします。 
ロータリー平和フェローシップは、世界平和と開発の担い手となる人材を育てるための奨学金制度です。センターは世界の6ヶ所、日本はICU国際基督教大学にあります。毎年10名が来日して修士号取得を目指します。写真は当地区がカウンセラーを担当している4名です。10年間で世界で1200人を輩出してきました。 多くは国連や世界銀行などの国際機関や草の根のNGOで活躍しています。彼らのような志の高い人を大事にしたいと思います。地区の推薦事例として素食例会を提案しています。例会食を軽食にして浮いたお金をフェローシップ基金へ寄付するというものです。いかがでしょうか。 
地区補助金は既に66クラブに活用されてきました。会員が財団に寄付したものが原資で、3年前の半分を使うことができます。地区補助金とグローバル補助金の2種類ありまして、奨学金の人選は地区委員会で行っていますので、各クラブには人道的なプロジェクトの計画を進めていただきたいところです。
グローバル補助金は、日本のクラブが途上国のクラブを支援するケースが多く見受けられますが、先方にまかせきりの、いわゆる便乗でないように注意が必要です。地区補助金は、支援基準や留意点をよく認識されて申請をお願いします。あくまでも財団の使命に沿ったもの。また、ふさわしくない事例に抵触しないように注意をお願いします。他団体の活動に安易に乗っかるのではなく、ロータリークラブとして独自の活動をどのようにするのかを考えていただきたいです。
(今年度の推薦候補の説明;中略)
当地区では会員から一人230ドルを4つの種類に指定いただくようにお願いをしていますので、ご理解の上、どうか宜しくお願いいたします。ちなみに神田RCは会費の請求と一緒に180ドルをいただいているところです。日本のロータリーの寄付は、まず公益財団法人ロータリー日本財団に入り、そこから米国本部へ送られるので、個人・法人とも寄付金には税制上の優遇が受けられます。

 

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「伊能忠敬の人物像について」

20191121

11月21日卓話要旨
伊能忠敬記念館 主幹 紺野 浩幸 氏
(久保田 忠義会員紹介)
 
 日本で初めて実測で日本地図を作ったことで知られる伊能忠敬は、17歳で婿養子として佐原の名門伊能家に入りましたが、元々の出身は佐原ではなく九十九里でした。50歳ぐらいまで家業と村のために尽くし、本格的に測量を学ぶようになったのは50歳を過ぎてからでした。浅草の天文台で5年間、天体観測を主体に学び、自ら買い求めた測量器具と培った技術で、全国測量に出掛けました。日本地図を作るために測量を始めたのではなく、地球の大きさを測るという大きなテーマがあり、江戸から北海道までを測ることを目標にしていたのです。
 10回にわたって測量したのですが、1818年、地図完成半ばにして亡くなりました。日本全国を測量して作られた地図はそれまで伊能図しかなかったので、1883(明治16)年に正四位が贈られました。科学技術の面での功績を認められて位をもらったわけです。
 次に忠敬の人物像について述べますが、ここでいう人物像とは歴史的に位置付けたものです。実直で勤勉だったとか、1948年に佐原で開催された忠敬の没130年祭の趣意書にある「自分の頭で考える人」といった評価は歴史的に位置付けた人物像ではありません。
 歴史的に位置付けた人物像としては、小島一仁氏が1978年に出した『伊能忠敬』(三省堂)という本の中で、ヨーロッパの科学的精神を身に付けた人物というものがあります。特に、忠敬の体得した新しい学問の精神は、西洋の科学的精神、あるいは近代科学の精神と呼んでも差し支えないものであると述べています。それに対し、川尻信夫氏は『幕末におけるヨーロッパ学術受容の一断面』(東海大学出版会、1982年)という著書の中で、忠敬の技術は中国を経由して日本にやってきたものであり、忠敬は洋学者とはいえないと言っています。お二人とも伊能忠敬記念館を開館するときの委員になっていただいたのですが、捉え方はかなり異なります。
 しかし、忠敬にはオリジナルの著作がほとんどなく、忠敬の本質を探ることは非常に難しいことです。唯一の著作である『仏国歴象編斥妄』は、僧侶の円釈通が書いた『仏国暦象編』という蘭学批判の書をさらに反駁した本です。ヨーロッパのいろいろな技術は、元々はインド起源だとする荒唐無稽な議論に忠敬が反論しています。しかし忠敬は、西洋の優位は当然認めながらも、西洋の学術の根幹となる天文学全体に対してはほとんど興味を示していないことから、忠敬は体系的に洋学を学んだわけではないのです。つまり、小島氏の説は成りたたないのです。
一方、尾藤正英氏は『日本歴史講座』(河出書房、1952年)の中で、平賀源内には、西洋学術に盲従し、権威主義に陥った人々とは異なり、本当の意味での科学的精神があると書いています。では、忠敬はどうかと見直すと、師匠の高橋至時との違いが分かる資料があります。至時が同門の間重富に宛てた手紙の中で、「『西洋の数値は端数が出ないのはおかしい。ヨーロッパの学問は大したことがない』と言っている忠敬をたしなめた」と書いてあります。しかし、忠敬は納得しませんでした。忠敬は自分の技術だけを信用するところがあるのです。その点で、尾藤氏が言っているような、平賀によく似た人物と位置付けられるのではないかと思います。
 忠敬とよく似た人に、間重新という人がいます。先ほどの間重富の息子です。重新は天体観測を丹念に行った人です。渡辺敏夫氏は『天文暦学史上における間重富とその一家』(山口書店、1943年)という本の中で、「西洋の学説がいかほど優れようと、いたずらに彼説に従うものにあらず」と言っています。つまり、西洋の学術をそのまま受け入れたのではなく、疑いながら受け入れた人たちがいたのです。こうした人たちもまた、忠敬に並ぶような人たちだろうと思います。
 蘭学・洋学者の受容類型としては、西洋の学術を拒絶したタイプには、『仏国暦象編』を書いた釈円通がいます。全面的に受け入れたタイプには、司馬江漢や高橋至時が入ると考えられます。そして、懐疑的に受け入れたタイプの中には、忠敬や源内、重新が入ってくるのではないでしょうか。忠敬は、一面的に西洋学術に対して信奉したわけでもなく、自分の技術や自信をもって、西洋の学術以上のものを生み出そうとした人物として位置付けられるのではないかと思います。

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