« 「親子はねやすめ 活動報告」 | トップページ | 「地区委員会活動報告」 »

2020年3月31日 (火)

「伊能忠敬の人物像について」

20191121

11月21日卓話要旨
伊能忠敬記念館 主幹 紺野 浩幸 氏
(久保田 忠義会員紹介)
 
 日本で初めて実測で日本地図を作ったことで知られる伊能忠敬は、17歳で婿養子として佐原の名門伊能家に入りましたが、元々の出身は佐原ではなく九十九里でした。50歳ぐらいまで家業と村のために尽くし、本格的に測量を学ぶようになったのは50歳を過ぎてからでした。浅草の天文台で5年間、天体観測を主体に学び、自ら買い求めた測量器具と培った技術で、全国測量に出掛けました。日本地図を作るために測量を始めたのではなく、地球の大きさを測るという大きなテーマがあり、江戸から北海道までを測ることを目標にしていたのです。
 10回にわたって測量したのですが、1818年、地図完成半ばにして亡くなりました。日本全国を測量して作られた地図はそれまで伊能図しかなかったので、1883(明治16)年に正四位が贈られました。科学技術の面での功績を認められて位をもらったわけです。
 次に忠敬の人物像について述べますが、ここでいう人物像とは歴史的に位置付けたものです。実直で勤勉だったとか、1948年に佐原で開催された忠敬の没130年祭の趣意書にある「自分の頭で考える人」といった評価は歴史的に位置付けた人物像ではありません。
 歴史的に位置付けた人物像としては、小島一仁氏が1978年に出した『伊能忠敬』(三省堂)という本の中で、ヨーロッパの科学的精神を身に付けた人物というものがあります。特に、忠敬の体得した新しい学問の精神は、西洋の科学的精神、あるいは近代科学の精神と呼んでも差し支えないものであると述べています。それに対し、川尻信夫氏は『幕末におけるヨーロッパ学術受容の一断面』(東海大学出版会、1982年)という著書の中で、忠敬の技術は中国を経由して日本にやってきたものであり、忠敬は洋学者とはいえないと言っています。お二人とも伊能忠敬記念館を開館するときの委員になっていただいたのですが、捉え方はかなり異なります。
 しかし、忠敬にはオリジナルの著作がほとんどなく、忠敬の本質を探ることは非常に難しいことです。唯一の著作である『仏国歴象編斥妄』は、僧侶の円釈通が書いた『仏国暦象編』という蘭学批判の書をさらに反駁した本です。ヨーロッパのいろいろな技術は、元々はインド起源だとする荒唐無稽な議論に忠敬が反論しています。しかし忠敬は、西洋の優位は当然認めながらも、西洋の学術の根幹となる天文学全体に対してはほとんど興味を示していないことから、忠敬は体系的に洋学を学んだわけではないのです。つまり、小島氏の説は成りたたないのです。
一方、尾藤正英氏は『日本歴史講座』(河出書房、1952年)の中で、平賀源内には、西洋学術に盲従し、権威主義に陥った人々とは異なり、本当の意味での科学的精神があると書いています。では、忠敬はどうかと見直すと、師匠の高橋至時との違いが分かる資料があります。至時が同門の間重富に宛てた手紙の中で、「『西洋の数値は端数が出ないのはおかしい。ヨーロッパの学問は大したことがない』と言っている忠敬をたしなめた」と書いてあります。しかし、忠敬は納得しませんでした。忠敬は自分の技術だけを信用するところがあるのです。その点で、尾藤氏が言っているような、平賀によく似た人物と位置付けられるのではないかと思います。
 忠敬とよく似た人に、間重新という人がいます。先ほどの間重富の息子です。重新は天体観測を丹念に行った人です。渡辺敏夫氏は『天文暦学史上における間重富とその一家』(山口書店、1943年)という本の中で、「西洋の学説がいかほど優れようと、いたずらに彼説に従うものにあらず」と言っています。つまり、西洋の学術をそのまま受け入れたのではなく、疑いながら受け入れた人たちがいたのです。こうした人たちもまた、忠敬に並ぶような人たちだろうと思います。
 蘭学・洋学者の受容類型としては、西洋の学術を拒絶したタイプには、『仏国暦象編』を書いた釈円通がいます。全面的に受け入れたタイプには、司馬江漢や高橋至時が入ると考えられます。そして、懐疑的に受け入れたタイプの中には、忠敬や源内、重新が入ってくるのではないでしょうか。忠敬は、一面的に西洋学術に対して信奉したわけでもなく、自分の技術や自信をもって、西洋の学術以上のものを生み出そうとした人物として位置付けられるのではないかと思います。

|

« 「親子はねやすめ 活動報告」 | トップページ | 「地区委員会活動報告」 »