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2020年3月31日 (火)

「聴竹居 藤井厚二の木造モダニズム建築─人と地域を未来へつなぐ─」

1月23日卓話要旨
一般社団法人聴竹居倶楽部 代表理事 松隈 章 氏
(児玉 正孝会員紹介)
2020123
 国の重要文化財に指定されている「聴竹居(ちょうちくきょ)」という建物は、建築家藤井厚二の自邸として建てられました。藤井は1888年に福山で生まれ、東京帝国大学を出た後に竹中工務店に入り、竹中工務店設計部の基礎を築いた人物です。6年で竹中を辞めた後、欧米視察に9カ月間出掛け、京都帝国大学建築学科の教授になりました。その後、自身五つ目の住居となる聴竹居を1928年に建てたのですが、その10年後49歳で、病気で亡くなりました。
 藤井は、自らが確立した環境工学を生かし、真に日本の気候風土に適合した住宅を実現しようとした建築家の一人です。日本では欧米に負けないように近代国家の様式を取り入れるため、明治期から洋館を取り入れていましたが、暮らしにくいからと和館も建て、和館と洋館をくっつけた和洋折衷の建物がよく造られました。それが藤井の目には、欧米の模倣と日本の伝統がただ雑然と混交している状態に映ったのです。藤井の代表的著作である環境工学の理論書を『日本の住宅』では、和風と洋風を10項目について比較しています。
 「気候」という項目では、日本の夏は好適な温度と隔たりがあるため、日本の住宅は夏季における設備の研究を主眼としなければならないと考え、直射日光による外気の熱を屋内に伝達させてはいけない、通風を良くしなければならないということを導き出しています。
 「設備」の項目では、間取りや壁、屋根、窓、鉄筋コンクリート住宅について触れています。間取りについては、欧米のような高気密のものは良くなく、換気が大事であると説いています。我が国伝来の住宅では、ふすまや障子で囲われて一つの部屋になり得る形にして風通しを良くしてきたので、それを生かさなければならないと書いています。壁については、実験で性能を確かめた上で、土蔵壁が最も断熱性に優れているのでこれを使うべきだと結論付けています。屋根については、排水だけでなく屋内の気候を調整するために重要だと書いていますし、窓については、雨戸は不要だが、紙障子を通したぼんやりとした明かりが日本人の心に合うので、紙障子が大事だと書いています。それから、鉄筋コンクリート住宅については、藤井は関東大震災の後、コンクリートが大事だとして幾つか取り組んだのですが、当時は調湿性や遮音性に問題があって採用には否定的見解を示しています。「夏の設備」の項目では、やはり換気や通風を利用した室内環境の維持について詳述しています。その内容を四つ目の自邸で実験し、五つ目の自邸「聴竹居」で改良した上で適用しています。「趣味」という項目では、「住宅は単純に雨風を防いだり耐火・耐震するだけでなく、住人に慰安を与えて愉快なものにしなければいけない」と説いています。さらに、自然に反抗してはならないと説き、今でいう景観についても触れています。
 藤井の行いを振り返ると、日本の気候風土や自然環境を環境工学から解明し、設計に活用して日本の住宅に残し、さらに聴竹居で実現しました。和洋折衷ではなく、洋と和を統合した進化を行い、日本住宅を近代的なものに変えようとしたのです。
 私は阪神・淡路大震災をきっかけに、聴竹居の保存活動をするようになりました。震災で半壊してしまった、明治を代表する建築家武田五一の「芝川邸」の移築をきっかけに藤井を知ったのです。芝川邸同様、貴重な住宅である聴竹居の保存の一環として、竹中工務店有志で実測調査を行い、実測図集も発行しました。しかし当時は無指定の個人邸でしかありませんでした。
 知られるようになったのはNHKの「美の壺」で取り上げられたのがきっかけでした。放送は2010年でしたが2013年のスペシャル版をご覧になった当時の天皇、皇后両陛下が興味を持たれ、その年の6月に行幸啓が実現しました。無指定の個人邸の行幸啓は恐らく唯一でしょう。聴竹居にとって非常に運命的なことでした。
 聴竹居は、2000年に住人が亡くなられて以降、2008~2016年は私が個人的に借りて、近隣住人のボランティアによる聴竹居倶楽部という任意団体が公開していましたが、2016年末以降は竹中工務店が所有し、一般社団に格上げした聴竹居倶楽部が公開を続けています。国重文に指定された今、年間1万人強の人たちが各地から訪れていますので、皆さまもぜひ現地に来ていただけたらと思います。

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