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2021年7月 6日 (火)

「出逢い・感謝 ボクシングのおかげで」

6月11日卓話要旨
JBC試合役員会会長・レフリー  吉田 和敏 氏
(東京足立ロータリークラブ)

2021611
   本日はお招きありがとうございます。伝統ある格調高い東京神田RCで自分の思いを伝えられる場を頂き本当に幸せです。レフリーの服装で参りましたが、正確には少し違います。まずはシャツ、昔の青いユニフォームで来ました。そして靴、レフリーも選手と同じゴム底のリングシューズです。レフリーは黒子なので黒が良いです。選手が接触して怪我をしてしまうかもしれませんので、金属類を身に着けてリングには上がれません。眼鏡も結婚指輪もダメです。本日はボクシング現役時代の話しをしたいと思います。
高校生の時は何を隠そう呼び出し第一号、何となく学校に行きたくなくて、何日もサボり両親に心配をかけました。国学院大学に入学後、もう一度運動部に入ろうと選んだのは親父曰く何の役にも立たないボクシング部でした。
2年生まで勝てず一大奮起、スタミナとパワーは他人より勝っていたので走ることを決断し、一日30㎞、雨の日も台風の日も休まず走りこみました。親友との出会いもありました。褒め上手の九州男児、彼のお陰で自信が付きました。3年生の決勝戦、当時アマチュアの試合はヘッドギアなどを付けておらず、下顎と左横顎を骨折しながらも優勝。優勝する姿をどうしても見せたかった親父は満足そうな嬉しそうな最高の笑顔をしていました。3年生の秋にはキャプテンになりました。両親のモットーである率先垂範、誰よりも練習して皆を引っ張りました。4年生、決勝戦の相手は赤門パワーと呼ばれスポーツが強かった東大の早稲田選手。対決の前、通っていた簿記学校の欠席届に親父が「これは一番縁起がいい判子なんだぞ」と言いながら押してくれたことは、今も忘れられません。
卒業後、一度は企業に就職するも、自分の可能性に挑んでみたいと、プロボクサーになることを決め、配属されたファミリーレストランの仕事の前後、早朝深夜に再び走り始めました。けれどプロで成功するにはどうしても無理でした。規則正しい生活リズムが必要だったのです。親父の勧めで実家に戻り、名門の帝拳ジムに入門。但し25歳までという条件付きです。ここには、故 大場政夫さん、そして、彼を母親のように厳しく温かく育て上げたマネージャー長野ハルさんがいました。皆から親しみを込めて「お姉さん」と呼ばれていた彼女のことをボクシング界で知らない人は一人もいません。お姉さんはプロになった私のマネージャーでもありました。デビュー戦、ボクシングの聖地、後楽園ホールに50人以上が応援に駆けつけてくれました。しかし、僅か1分46秒でノックアウト。その時、お姉さんに言われた「今日はなかったことにしましょう」の一言にどんなに救われたかわかりません。恩師宮崎先生の「吉田君、逆境にあった時、本当の人間性がわかるんだよ」との言葉に気づくと大粒の涙をいっぱい落としていました。ところが、人間て弱いんですよね。次第に走るのをやめ、ジムに行かず上野界隈をブラブラしては一杯やって家に帰ることも。  
そんなある朝、お袋が襖を開けて大きな声で「走らないのか。負けたままで悔しくないのか」と。私はこの一言で生まれ変わりました。そして屈辱の敗戦から8カ月後、プロ第2戦目で勝利。親父は大学時代と同じ最高の笑顔をしていました。東日本新人王は準々決勝まで進んでいましたが、0対2の判定負けでした。もし勝っていたらボクシングを続けていたかもしれません。
その後、分かったことがあります。あの朝お袋が厳しく𠮟りつけたのは、ボクシングで得た自信や信念をボクシングで失わせてはいけないという親心だったと。今は心底感謝しています。そして、ボクシングに対する感謝の気持ちを込めて、JBCレフリーとしてリングに立っています。レフリーが試合前、選手をリングの中央に集めて何を話しているのか知っていますか。
決まり文句はありません。細かい注意は耳に入りませんから、大切にしている気持ちを言います。「JBCルールを守って、ベストを尽くして、悔いを残さないように、頑張って」今、一番の楽しみは出会った人達をボクシングに招待する“ボクシングとファミレスの夕べ”です。後楽園ホールとファミリーレストランで共有する時間は至福の時です。
最後に、大好きな相田みつをの言葉から「ひとの世のしあわせは、人と人とが逢うことからからはじまる よき出逢いを」。ありがとうございました。

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