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2022年8月30日 (火)

「チーム改革による学生卓球グランドスラム達成秘話」

7月29日卓話要旨
前・早稲田大学卓球部総監督兼女子部監督   櫻井 茂雄 氏
(池原郁夫会員紹介)

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ご紹介にありましたように早稲田大学の監督をしておりましたが、最初から強い選手を目指して卓球を始めたわけではなく、中学では野球部に所属し、関東学生野球の歴史に残る早慶六連戦をラジオで聴き、憧れて早稲田を目指すようになりました。偶然入部した卓球部で、高校から大学、実業団、ましてや母校の監督になるとは夢にも思っていませんでした。サラリーマンと卓球と二足の草鞋を履き、仕事と共通することも多々感じてきました。
まず学生スポーツの目的・意義を挙げますと、一つは個人での悩み、チームでの苦悩を仲間と共有しながらやり通したことは「人生の生きた教材」であるということ。私にとっても卓球は人生の生きた教材であり、それを通して何とかここまで来ることができて、今この場に立てていると感じています。そして「3F(Fighting-spirit、Fight-fair、Friend-ship)」これはスポーツだけでなく、社会人になってからも活きていると思います。
それから、仲間と目標を共有し、苦楽を共にし、目標を達成した際に得ることができる「感動・感激・感謝」。感動の後、何かしらこみ上げてくる感激と感謝は、誰にお世話になったではなく、周りにいる人全員に感謝したくなる気持ち。これは人生の無形資産となる体験であり、後輩たちにも味わって欲しい、そして社会に出て良い人生を送って欲しいという思いもあって、私の監督としての基本的なスタンスでした。
次に監督になった経緯ですが、総合大学のスポーツといえば男子がメイン。早稲田卓球女子は、良くて関東学生リーグの2部、部員が揃わないと5部まで落ちるという状況でした。そういう中で当時のOB会長から「男子の応援に行った時に、女子も同じ会場で試合をしているよう1部に昇格・定着させてほしい」と要望を頂きました。当時、卓球専門メーカー・(株)タマスに勤めていたことから交流のあった福原愛選手を始め、有力選手の入学が決まっており、今が1部に上がるチャンスだということ。このような選手をうまくまとめていくのは誰にでもできることではない、と先輩から強くお誘いいただき、悩みに悩みましたがお引き受けする決断を致しました。 
そして監督就任の道場開きにて「女子部の歴史を変えます。関東学生リーグの春リーグ・秋リーグ、インカレも優勝して三冠を取ります」と、当時の女子部からすると、とてつもない抱負を宣言してしまいました。部員には「監督というのは上下関係ではなく、プロジェクトチームの単なる役割であり責任者であって、青春を共にする仲間だと思ってくれ」と伝えました。目標に向かって「限界」に挑戦する姿、「希望を捨てるな、希望を失った時も努力を捨てるな!努力する者には何時かチャンスが来る!諦めたらそこが自分の限界!」だから諦めるなと伝えてスタートしました。
まずチーム改革をするには、意識から変えなくてはと思い、目標の明確化を実施。「目的(卓球をやる意義,使命,無限に達成不可能なもの)」と「目標(達成可能な具体的な数値,技術,戦術,等々)」は似て非なるもの。チーム目標は全員で一致、共有せねばならないため監督が決めるとし、道場開きでも掲げた三冠。個人目標は、時期や順位等、数値目標を明確にしステップアップできるよう選手に設定させ、期限内に達成できなかった場合は面談を行い修正していきました。
又、主将など部内人事の選任方法を改革、活性化しました。部員一人一人から意見を聞いてボトムアップしながら、監督とコーチがトップダウンで決める。自主性に任せて群れが出来てしまうなど、チームが割れてしまうのは非常にマイナスなので、これだけはやりたいと思っていました。チーム運営(組織運営)で取り組んだのは、選手の「3自(自主性,自律性,自己責任)」。「報告・連絡・相談」の徹底。又、ベクトルを合わせること。一般入試とスポーツ推薦で入った選手がおりますので、意識、技術、経歴に差がある中で、全員が優勝を目指し、チーム目標へいかに持っていくかという事を大切にしました。
卒業部員には、生涯で悲しみの涙は誰でも体験するが仲間との3感の涙は滅多に無く、お金で買えない貴重な体験だと伝えて送り出しておりました。
以上、皆様に何か参考になれば幸いです。

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2022年8月22日 (月)

「ふしぎな道のり」

7月22日卓話要旨
宮内庁 書陵部    大久保 洋子 氏 
(福岡 正人会員紹介)

大久保洋子と申します。私の名前は自分から話さない限り大久保利通との縁があると分かりません。ある意味助かっていましたが、祖父が亡くなり、父も高齢となった時に、自分がやるべき事は何かと考え始めています。世間での利通に対する評価は各時代によって変化してきました。ただ、利通を暗殺したのは石川県士族でしたが、祖父母や父から鹿児島や石川への悪口や批判等を聞いた事はございません。私は利通が鹿児島や世間でどういう評価を受けているか知らずに育ちました。祖父が亡くなった時に、「利」の字がついている父の名前でしなければならない事は、父にしておいて欲しいと考えました。私にできるのはお墓を守り、祖父母達が世代を超えて守ってきた物をいかに受け継ぐか、そして、考え方の部分でも、自分たちの歴史あるいはインターネット社会が抱える問題に対して、自分の立場や考え方をしっかりと持って見ると色々なことが見えてくるという事を伝える役割を果たせたらと思います。
子孫達が利通をどう捉えるかは時代の影響を受け、各世代により異なります。利通の子どもの世代では幕末・明治の影響が大きい時代でしたが、次男の牧野伸顕と三男の利武は自分達の記憶が新しい内に残された資料を整理して後世に残そうとしました。また牧野は政府の閣僚となり、利武は大阪府知事等を務め、社会福祉にも目を向けたようです。 
子ども達が自分の信じるままに歩いてきた結果が利通の意志を継ぐ事となりました。利武の子どもである利謙は近代史研究の学者となりました。牧野と利武が文書集を作った姿を見た影響か、利謙は資料を収集、国立国会図書館の憲政資料室設置にこぎつけました。当時は各藩の影響も色濃く残っていたため、明治維新を語るには難しい面がありましたが、大名の方にも資料提供に協力していただき、その時代に合ったやり方で明治を捉えたわけです。
利謙の子どもである私の父は普通のサラリーマンとなりましたが、40代の時に自分の祖先についての勉強を始めました。政治にも関わらず、研究者でもありませんが、世代が下がってくる事による、利通への寄り添い方が出てきます。不思議な事に父の世代、世間に明治を改めて問い直すという姿勢が出始めた時になって、未発見の資料がポロっと出てきて、利通がどういう考えで明治政府を動かそう、近代化を進めようとしていたのかという事をテレビのドキュメンタリーで研究者から客観的に語られるようになりました。 
またテレビ画面に映る資料は印刷物よりも説得力があるという事で、多くの方から資料の持つ凄さについてのお声を頂戴しました。資料がいかに大事であるかを教えてくれたのは利通の子どもの牧野と利武達です。資料の大切さは祖父と父を経て、今、私のところに伝えられています。
平成の時代に、千葉県の国立歴史民俗博物館に殆どの資料を寄贈しました。これは「利」がついた父でなければと思い、私が父の背中を押して利泰の名前で寄贈しました。歴博は展示会を開き、写真撮影可能として下さいました。殆どが書簡類で見栄えがしませんが、来館の方達が文書を熱心にご覧になって下さり、本物が持つ力を再認識しました。
今はデジタル化により復刻ができますが、本物の資料を実際に手に持って見ることの大切さについて皆様の意識を向けることができたかと思っています。
私は名前に「利」がついていませんが、大久保という名字だからこそ色々な方とご縁ができ、皆様のおかげで積み重ねてきた事が、結果的に大久保を理解する大きな糧になったと感じています。
こぼれ話ですが、大久保利通の銅像の台座には人物と馬のレリーフがあります。利通暗殺の際に一緒に殺された身寄りがなかった馭者の中村太郎君と馬のため、午前に馭者と馬の仮葬儀を行い、午後に大久保の本葬を行いました。中村太郎君と馬の墓は利通の墓の横にあります。その事を父からお聞きになった制作者の中村晋也先生がレリーフを入れて下さいました。
また、日本初の殖産計画でできた安積疏水がある福島県郡山には大久保神社があります。旱魃時にも水が途切れないのは大久保利通公のおかげですとおっしゃって頂きました。こうして道のりを申し上げて参りましたが、大久保等が歴史を動かしたと話す方もありますが、やはり市井の人々の血と涙と命があって、幕末から明治そして今の発展があると最後に申し上げます。





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