« 「出逢い・感謝 ボクシングのおかげで」 | トップページ | 「チーム改革による学生卓球グランドスラム達成秘話」 »

2022年8月22日 (月)

「ふしぎな道のり」

7月22日卓話要旨
宮内庁 書陵部    大久保 洋子 氏 
(福岡 正人会員紹介)

大久保洋子と申します。私の名前は自分から話さない限り大久保利通との縁があると分かりません。ある意味助かっていましたが、祖父が亡くなり、父も高齢となった時に、自分がやるべき事は何かと考え始めています。世間での利通に対する評価は各時代によって変化してきました。ただ、利通を暗殺したのは石川県士族でしたが、祖父母や父から鹿児島や石川への悪口や批判等を聞いた事はございません。私は利通が鹿児島や世間でどういう評価を受けているか知らずに育ちました。祖父が亡くなった時に、「利」の字がついている父の名前でしなければならない事は、父にしておいて欲しいと考えました。私にできるのはお墓を守り、祖父母達が世代を超えて守ってきた物をいかに受け継ぐか、そして、考え方の部分でも、自分たちの歴史あるいはインターネット社会が抱える問題に対して、自分の立場や考え方をしっかりと持って見ると色々なことが見えてくるという事を伝える役割を果たせたらと思います。
子孫達が利通をどう捉えるかは時代の影響を受け、各世代により異なります。利通の子どもの世代では幕末・明治の影響が大きい時代でしたが、次男の牧野伸顕と三男の利武は自分達の記憶が新しい内に残された資料を整理して後世に残そうとしました。また牧野は政府の閣僚となり、利武は大阪府知事等を務め、社会福祉にも目を向けたようです。 
子ども達が自分の信じるままに歩いてきた結果が利通の意志を継ぐ事となりました。利武の子どもである利謙は近代史研究の学者となりました。牧野と利武が文書集を作った姿を見た影響か、利謙は資料を収集、国立国会図書館の憲政資料室設置にこぎつけました。当時は各藩の影響も色濃く残っていたため、明治維新を語るには難しい面がありましたが、大名の方にも資料提供に協力していただき、その時代に合ったやり方で明治を捉えたわけです。
利謙の子どもである私の父は普通のサラリーマンとなりましたが、40代の時に自分の祖先についての勉強を始めました。政治にも関わらず、研究者でもありませんが、世代が下がってくる事による、利通への寄り添い方が出てきます。不思議な事に父の世代、世間に明治を改めて問い直すという姿勢が出始めた時になって、未発見の資料がポロっと出てきて、利通がどういう考えで明治政府を動かそう、近代化を進めようとしていたのかという事をテレビのドキュメンタリーで研究者から客観的に語られるようになりました。 
またテレビ画面に映る資料は印刷物よりも説得力があるという事で、多くの方から資料の持つ凄さについてのお声を頂戴しました。資料がいかに大事であるかを教えてくれたのは利通の子どもの牧野と利武達です。資料の大切さは祖父と父を経て、今、私のところに伝えられています。
平成の時代に、千葉県の国立歴史民俗博物館に殆どの資料を寄贈しました。これは「利」がついた父でなければと思い、私が父の背中を押して利泰の名前で寄贈しました。歴博は展示会を開き、写真撮影可能として下さいました。殆どが書簡類で見栄えがしませんが、来館の方達が文書を熱心にご覧になって下さり、本物が持つ力を再認識しました。
今はデジタル化により復刻ができますが、本物の資料を実際に手に持って見ることの大切さについて皆様の意識を向けることができたかと思っています。
私は名前に「利」がついていませんが、大久保という名字だからこそ色々な方とご縁ができ、皆様のおかげで積み重ねてきた事が、結果的に大久保を理解する大きな糧になったと感じています。
こぼれ話ですが、大久保利通の銅像の台座には人物と馬のレリーフがあります。利通暗殺の際に一緒に殺された身寄りがなかった馭者の中村太郎君と馬のため、午前に馭者と馬の仮葬儀を行い、午後に大久保の本葬を行いました。中村太郎君と馬の墓は利通の墓の横にあります。その事を父からお聞きになった制作者の中村晋也先生がレリーフを入れて下さいました。
また、日本初の殖産計画でできた安積疏水がある福島県郡山には大久保神社があります。旱魃時にも水が途切れないのは大久保利通公のおかげですとおっしゃって頂きました。こうして道のりを申し上げて参りましたが、大久保等が歴史を動かしたと話す方もありますが、やはり市井の人々の血と涙と命があって、幕末から明治そして今の発展があると最後に申し上げます。





|

« 「出逢い・感謝 ボクシングのおかげで」 | トップページ | 「チーム改革による学生卓球グランドスラム達成秘話」 »