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2022年12月13日 (火)

「米山月間に因んで」

10月7日卓話要旨

米山奨学生 孫(そん) 雲涛(うんとう) さん
 (久保 和人会員紹介)

2022107

  このような機会を頂き甚だ恐縮ではありますが、その上で敢えて何をお話したら良いかと考え、自分の専門である哲学と関わることをテーマに決めました。啓蒙時代以降「人間は尊重されるべきだ」というものが無条件的な考え方であると思われてきましたが、それ以前は、人間は神の被造物に過ぎないとされ、尊重されるべき存在者だとは考えられていませんでした。果たして人間は尊重されるべきなのかということを改めて問うのが本日のテーマです。

人間は尊重されるべきだというテーゼに戻って考察すると、「べし」には「~して当然だ・~するのが適当だ」というような意味があります。一方対義語は、「~したい・~して欲しい」等であり、自らの欲望を一方的に要求する言葉です。例えば、お腹が空いたらご飯を食べたい等、いずれにしても個人的なことを目標として求めます。しかし「べし」の場合、普遍的な立場で物事を要求するため、例えば他人に対して約束したことを履行するべきだと主張する場合、単に特定の人に対してのみならず、全ての人にもそのようにして欲しいと考えているはずです。このことから、動物は自然の法則に縛られているため要求や傾向性によってのみ行動しますが、人間は他の動物とは異なり何をすべきなのか、或いはすべきでないのかを自由に選択することができる、特殊な存在者であることが明らかです。
例えば『詩経・小雅』にはこんな話があります。柳下惠という道徳意識の高い高尚な男性が寒い夜に旅をしていると、美しい女性と出逢う。この女性が凍死しないよう自分の懐中で一夜を明かすが何も不道徳なことはなかった。これは動物界では決して起こらないことですね。動物たちは、交尾の季節には自然の摂理に支配されて交尾行為をせねばならず、何をすべきなのか、すべきでないのかを考えることはありません。
つまり、動物たちは自然の法則でのみ行動しますが、人間は道徳法則に従って行動することができ、もし不道徳だと考えればやらないという自由も持っています。このような存在者のことを、ドイツの哲学者イマヌエル・カントは「理性的存在者」と呼んでいます。人間は理性的存在者ですが、自然界に生きている動物でもあり、他の動物と同じように食事をしたり睡眠をしたりしなければなりません。即ち厳密に言えば、半分が理性的存在者で、半分が動物と言わざるを得ないのです。しかし自らの動物性を克服し、100%の理性的存在者になることも可能だということが、この柳下惠の話からわかります。とはいえ自分の動物性を克服するのは、決して簡単なことではありません。
例えば筋トレは、突然やる気になってやるものではなく、決めた計画を毎日やり続けることが成功の秘訣です。しかし毎日同じことをやると、いつかその限界が来ることもあります。私がよく経験することですが、一日の授業が終わった後、今日は頑張ったので家に帰って休もうという気持ちと、反対に、自分が決めた計画と目標を考え、やはり今日の筋トレはまだやっていない、やらないと自分を裏切ることになるという気持ちも湧いてきます。
このように自分の動物性を克服するために、大変な思想闘争をしなければならないのです。それでも決めた計画のために一時的な欲望や衝動性を我慢して成功した時、心からの喜びが生まれるため、私は目標に従って生きるのが好きです。自らの理性が、目標に従って行為することを自律と呼びます。自律は他律とは違い、外部からの強制的な命令ではなく自らの理性のみで立てられる法則を遵守して行為することができます。
西洋の哲人だけでなく儒教思想の孔子も同じような考え方を持っていました。ある日弟子の顔淵が「仁とは何か」と聞くと、孔子は「克己復礼を仁と為す」と答えました。つまり仁とは私情や私欲に打ち勝ち、礼儀に適った行いをすることであり、行為の確立や道徳法則等、様々な意味が含まれています。このことから、孔子とカントの思想に一致性があると考えられます。賢人たちは、自然の法則に縛られず道徳法則に従って行為することを何よりも重視していたことが分かりました。そして人間は確かに他の動物と異なり、特殊な存在者ということも明らかになりました。その特殊性とは、人間は道徳的な行為を実践し、道徳的な生活を送ることができることです。ただそれだけの理由で、人間は尊重されるべきだと私も考えております。

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